土曜日, 7月 09, 2022

6/7ゼミ『溶かして、変える』By Yuna

こんにちは、松本ゼミ3年の吉原ゆなです。

 今年度から松本ゼミでお世話になります、よろしくお願いいたします。短大でのゼミとは違った活動が多く、松本ゼミのみなさんから多くの刺激を受けています。これからも、新たな視点・考え方に触れ、視野を広げていきたいと思います。今回私が、第2章『溶かして、変える』(ブレイディみかこ(2021)『他者の靴を履く アナ―キック・エンパシーのすすめ』(文芸春秋)P38-65)のまとめを担当しました。

 主なテーマは『アイデンティティ』についてでした。私はまず、槇さんの「他者の靴を履くときには、推察も大切ではあるが履いてからでないと始まらない」という意見に気づかされました。自分の内で考え言語化せず、行動に移すこともないままでいることは、ただの自己満足・靴を履いた気になっている状態であることに気づきました。他者の靴を履くということは、自分の偏見や嫌悪感を超えるところから始まるのかなとも思いました。私も、相手が偏見などの色眼鏡をかけて近づいてこられれば、心を閉ざします。逆に、色眼鏡を外し、分からないながらも理解しようと模索し、本音で向き合おうとされれば、自分の靴について話せるだろうなと思いました。

 では、本音で向き合おうとしたとき、どのようにすれば伝え合うことができるのでしょうか。文中に『言語化』という言葉が出てきました。TC(Therapeutic Community: 刑務所内で治癒・回復のために実践されているプログラムである「回復共同体」)や劇などで、自分ではない誰かになりきることで、その気持ちを言語化していくことで、伝える能力が高まっていくとありました。本当の自分や本音を話せていないと感じるのは、この言語化する機会が少なかったためではないかと、意見交流を通して気づくことができました。保育現場では、話せる子どもには、なるべくその子どもの言葉で話す機会を大切にすることと、繋がりがあるようにも感じました。

 今日の話し合いを経て、なぜ人は気持ちを素直に言語化したり、相手の言葉に疑心を覚えたりしやすいのか考えることができました。『本当の自分』や『本当の誰か』は、いつの間にか一つだけと思いこんでしまうのは、社会的な風潮が影響していること。自分の多面性(四つの窓)を一つにしようとすることから、自分の靴について一貫した見方ができず、履こうとした人・履いた人に対して「そんなんじゃない」となってしまうのではないかと思いました。

 初めて読む部類の本であったため、読み込みが浅いまま話し合いに参加することになってしまいました。しかし、様々な意見から自分がどう考えているのか、何を見落としていたのかを少しではありますが気づくことができたので、とても新鮮でした。意見交流を積み重ねていった先で、現在よりも豊かな意識を持つことができるように、丁寧に内容を深めていきたいです。







金曜日, 6月 10, 2022

5/31ゼミ『外して、広げる』by Yuriko

 こんにちは!松本ゼミ4年の槇優梨子です。

 今年度からゆなちゃんが松本ゼミに加わりました! これからまた新たな松本ゼミのみんなで楽しく交流を深めつつ、様々なことを考えたり、そこから学んだりしていけたらいいなと思います!

 今回は私が、はじまりの第1章『外して、広げる』(ブレイディみかこ(2021)他者の靴を履く アナ―キック・エンパシーのすすめ(文芸春秋)p1~37)のまとめを担当しました。

 主なテーマは『他者理解』についてでした私はまず、ゆなちゃんの「他者理解は自分をモデルにしなければ(自分の経験が邪魔をしないので)いいのではないか、でも人間は何かを基準にしなければそもそも理解をすることが難しい」という意見に対して、なるほどと思いました。確かに自分の経験から学んだことを良くも悪くも自分の価値基準にして、何かを判断しています。そしてそれは人間ならば誰しもが自然と行っていることです。でももし生まれてから一度もなんの経験もしていないとすれば、きっと物事を偏見なく見ることが出来るだろうし、他者をそのまま受け入れることが出来るのかもしれないと思います。でも、もし今まで一度も誰かに助けられたことがない、誰かが誰かを助ける場面を見たことがないのならば、たとえ偏見なく他者を見ることが出来たとしても、助けるという行為はきっと思いつかないので、人間の経験は決して悪ではないだろうとも思います。

 

では様々な経験を持った私たちが、自分の靴をちゃんと脱いで、他人の靴を履くことは可能なのでしょうか。話し合いの中で『カウンセリングマインド』という言葉が出てきました。情動的ではなく、知的な形での共感。確かにそれは自分の靴を脱いで、他人の靴を履くことにとても近いと思います。でも、それはカウンセリングにとっては大事な心の活動ですが、現実生活の中でそのような共感をし続けるのは不可能であるとともに、それに相手が気付いた瞬間「ああ、形式的なものだったのか」となんだか虚しくなってしまうこともあります。そして、そもそも自分が手に入れたい『他人の靴を履く』行為はたぶん知的な形での共感ではなく、現実生活における情動的な共感だけど偏りが少ないというような状態であって、カウンセリングマインドは少し違うのかなとも思いました。


そんな中でわかなが「どんなに自分が『絶対履けない!履きたくない!』と思うような靴でも、一旦何も考えずに履いてみる。そして履いた状態で動いてみると、なんだか少しずつ馴染んできて今まで見えてこなかった景色が見える。これが大事なのかも。という話を例とともにしてくれました。私はそれまで『履く』という行為にしか焦点を当てていなかったけれど、履くだけじゃなくて履いた状態で動いてみるとたしかに、履いた時はあった自分の偏見や嫌悪感が無くなるとまでは言わなくても、動いているうちに何かしらの変化をもたらしそうな気がします。もちろん「私の靴を履いたつもりになっているけど、それは履けていない!」と言われ落ち込むこともあるかもしれないけれど、履いて動いてみる中で見えた新たな視点は決して無駄にはならないだろうなとも思いました。

 

今日の話し合いを経て、自分とは違う経験をした人と関わる機会を増やす、自分が今まで触れてこなかったものに触れてみる、とりあえず一旦その経験を深めてみる(履いて動いてみる)。そんな自分にとって「新しい!」という経験が一つ増えると、その次にそれに関連した物事に触れたときはもうそれが「新しい!」ではなく、前の経験がより深まる経験となるなと気付きました。そうやって知っていることがたくさん増えたり、いろんな人の視点に気付く経験を積み重ねたりしていくことで、無意識的に多面的な見方ができるようになり、すぐに物事を断定しなくなり、それが『自分の靴をちゃんと脱いで、他人の靴を履く』ことにつながっていくんじゃないかなと思いました。

 

久しぶりに本を読んで考える活動をしましたが、みんなで話し合うことで、自分がまとめを作っているときには意識しなかった部分に気付けたり、みんなの新たな視点を取り入れたことで自分自身としての考えをより深めるきっかけとなったりするので、改めて大事な時間だなあと感じました。これからの本の展開とともに、私たちの中でどのような視点や考え方が生まれていくのかがとっても楽しみです。





土曜日, 3月 26, 2022

Leaving 2022

今年もこの日が来ました。大学教員として働いてちょうど20年。今年のゼミからは、心優しき島の子はなちゃん、笑顔のはちきんりっちゃん、がんばる小さな巨人みさきの3人が巣立っていきます。

それぞれの道を歩んでいく中で、時に険しい何かにぶつかることもあるでしょう。
そんなときは、直島での卒業遠足で楽しんだ、家プロジェクト・南寺でのあの感覚をちょっぴり思い出してもらえたらと思います。

すぐそこにある筈の先を照らす光が、今はまだ見えなくとも、少しの時間が経った後にはじめて見えてくることもある。そこに至るまでの長さもまた、あなたらしさです。
そんなときは、また一緒に座って待つから大丈夫。

卒業おめでとう。かけがえのない日々はこれで一区切り。
そろそろ出航の時です。
また会える日を楽しみにしています!



『少人数集団と子どもの経験 —集団内集団の形成が困難な就学前施設に着目して—』
『保育場面における保育者の心の余裕を保障するために』
『子どもにとっての空想の友達とは —空想の友達を持つ子どもを支えるために—』

3人それぞれ、とても質の高い魅力的な研究をまとめました。

今年、私もみんなと同じタイミングで博士学位を取得しました。
『保育実践を介した幼児期の文字習得の検討—社会的側面に着目した初期リテラシー発達の視点から—』

せっかくなので一緒に並べて。








木曜日, 8月 19, 2021

7/13 ゼミ『子ども観をさかのぼる』(宮原)

 こんにちは。松本ゼミ3年の宮原です。

 今回は、第5章『子ども観をさかのぼる』(川田学(2021)『保育的発達論のはじまり』(ひとなる書房)p.90~p.100)を読みました。本章を担当してくださったのは、りささんです!

 本章では、子ども観が時代や文化によって様々であるということから発展して、ことばと実践の結びつきについて語られており、そこから、子ども観や子育て論の変遷へと話が展開されていました。本章の内容を踏まえて、いくつかの保育実践に触れながら意見交換を進めました。

 私が話し合いの中で特に残ったところは、りささんの『子どもの成長を支えるために環境を整えることは、同時に周囲が子どもの成長をコントロールする力を持っているということなのではないか』ということばと、『育ってほしい枝の成長を支えるために切った枝がとても輝く可能性があるかも知れない。』という部分です。。これらのことから、保育者は自分のこれまでの経験や知識などにとらわれずに色々な人の持つ多様な<観>を吸収しながら、目の前の子どもに向き合いその子の可能性を広げられるような保育をしていくことが大切だと感じました。

 りささんがみんなで考えたいこととして提案してくださったのは、『自分たちから見る子どもの姿と保育者から見る子どもの姿、同じ姿を見ているけれど捉え方が違うなと思った実践はありますか?』と、『現代、私たちはどうして子どもへ愛着や関心を抱くのか、子どもの何を大切にして子育てや保育をしていくべきなのか』の2点です。

 一つ目の疑問に対して、まず初めに、子どもの姿一つを取っても、その姿の背景を知っているかどうかによって捉え方は変わってくるという話が出ました。次に、実習での経験から、子どもの状況や気持ちを知るためには、やはり子どもの声を聞くことが大切なのではないか、という意見もありました。そして、給食を食べない児童がいたらどのように対応をするかという質問への、小学校コースの学生と、幼児教育コースの学生の間での回答の相違点から、自分のもつ価値観や置かれている状況も、子どもの姿の理解において重要な要素になってくるのではないかという話にもなりました。この話し合いを通して、自分がこれまで子どもにこう育って欲しいと思い考えていた指導案のねらいや、こうすることが子どもにとっていいことだと考えてしてきた関わり方は、子どもにとって本当によいものだったのかと改めて考えさせられるとともに、当たり前だと思ってきたことに疑問を持ちながら子どもと関わっていくことが大切なのだとわかりました。

 次に二つ目の疑問に対して、現代の競争社会では、将来を決めるのは自分自身の力次第であるため、保護者がいかに子どもの可能性を広げていけるかが重要だという意見が出た一方で、経済格差などがあり、現代の競争社会は平等な競争だとは言えないために評価軸が明確でなくなってしまっているのではないかという意見もありました。

 社会の変化に着目し、身分制度がなくなったことで、現代社会では保護者が自分の思いに正直に、子どもを育てていけるようになったのではないかという考えが出ました。そして、最後はりささんが、『社会』や『保育者として』ということ以前に、子どもには元気にすくすくと育って欲しいと願いながら日々関わっているのではないかという話で締めくくりました。

 本章を読んで、時代や文化というのは、保育や子育てに大きな影響を及ぼすものなのだと改めてわかりました。これから読んでいく第6章から第8章にかけて、発達と社会に関して述べられているので、第5章で学んだ内容をさらに深めていけると思うと楽しみです。

 ゼミの意見交換は、毎回自分になかった視点を与えてくれます。ゼミのメンバーの皆さんは自分にはない素晴らしい意見を持っていて、自分と比較して落ち込むことも多いですが、ゼミでの学びを通してしっかり成長していけるように頑張ります!





土曜日, 7月 17, 2021

7/6ゼミ『してもらう、する、してあげる、させてあげる』(槇)

 こんにちは。松本ゼミ3年の槇です。

 今回は、第四章『してもらう、する、してあげる、させてあげる』(川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房)p.74~88)を読みました!本章を担当してくれたのは3年のわかなです!

 本章は、〈ワタシ〉と〈アナタ〉が話者によって交替することを子どもが理解することの難しさと面白さから始まり、そこから子どもたちの自己意識が自己を離れ、だんだんと他者へと拡張していく育みへの着目を経て、本章の題名である「してもらう、する、してあげる、させてあげる」の考察が述べられています。その展開がとても興味深かったです。

 私は今回の「させてあげる」の部分を読んだときに無意識的に保護者・保育者から子どもへの働きかけを想像していたため、本書の事例が子どもから子どもへの働きかけであることをとても新鮮に感じました。この部分での話し合いにおいて、私はとくにりささんの、「パズルをすることは苦手だけれど、その動作を純粋に楽しんでいる子どもに対してほかの子どもがやってあげようとする」という事例が印象に残りました。子ども達は「全然進んでいないから手伝ってあげよう」と思っていますが、その子にはほかの子ども達のことが「自分がやりたいのに勝手にやろうとしてくる迷惑な人たち」として映っていることでしょう。これはきっと「する」「してあげる」の行動だと思います。ここから「させてあげる」という行動ができるようになるには他人の心を推し量り、「あえて」の行動(あえて手を貸さず、自分でできた!を支援する、など)ができるようになる新たな発達の展開が必要なのだと学びました。また、「させてあげる」という動作は保育環境、誰を主体として見るか、によって捉え方も変わってくるので一概にその行動を「させてあげる」の行動だと言い切るのは難しいという話もしました。また、「それをしたら褒められるから」という感情で動くことは能動的と言えるのか、という問いもとても印象に残りました。

 わかながみんなで考えたいこととして提案してくれたのは、機械が保育の現場に入ってくることは子どもの発達などにどのような影響を及ぼすのだろうか、能動と受容の一体的な経験を経て育まれていく主体性は機械だと育むことはできるのか、の2点です。

 まず一つ目の疑問に対して、機械と関わる中で子どもと機械との間にどのような状態が生じるか、ということについて話し合いました。表情や声のトーンが変わらないため、普段人との会話の中で何気なく働かせる「察する」という心の動きが必要なく、それと反対に、自分の気持ちが相手に伝わったか伝わっていないかを考えることがなくなる、など、人間ならではの「心の内」という部分に関する機械との比較がたくさん挙げられました。また、機械とのかかわりは「絶対的なものとして存在し続けるという安心感」があるが、同時に「この言い方をしたらこの人はどう思うだろう」というこちら側の感情の発生をなくし、「いつかいなくなってしまうかもしれない儚さ」もなく、それは虚しさを生むかもしれないという話も出ました。

 二つ目の疑問に対しては一つ目の疑問とも繋がって、人ならではの「意外性」がなくなることはすなわち、空気感を肌で感じる必要性がなくなるため、前回までの議論で出てきた「主体性の育みの中で必要な、他者とのかかわりの中での揺らぎ」がなくなるのではないか、という意見が出てきました。結論には達していませんが、子どもの主体性の発達に対する意外性のある人間のかかわりが生み出す揺らぎの大切さを改めて実感する話し合いとなりました。

 先生や先輩方と一つの議題について思い思いに意見交換をさせていただく時間は毎回大変緊張するものですが、その時間を経て、自分の中での学びが深まったり、新たな視点を吸収したりできるのがとても楽しく、本当に大切な時間だなと感じています。これからもゼミでのたくさんの学びを吸収しながら、成長していきたいと思っております。



火曜日, 7月 06, 2021

6/29 ゼミ『人間の赤ちゃんが“未熟”であることの意味』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙橋です。今回は、第2部,第3章「人間の赤ちゃんが“未熟”であることの意味」(川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房)p.54~73)を読みました。本章を担当してくれたのはまきろんです!


 本章では動物と人間の赤ちゃんを比較する中で人間の自由について述べられており、とても興味深かったです。動物は「探索的自由」(=自分で動きまわって生存に有利な行動をすることができること)を増大させていくのに対し、人間は「拡張身体的自由」(=自分の代わりに他者に実現してもらうことで欲求や好奇心を満たすこと)を最初に手に入れ、それを土台に「探索的自由」を手に入れて増大させていきます。赤ちゃんが泣いたり手足をバタバタさせたりしていると、周りの人は「どうしたの?お腹がすいたの?」などと赤ちゃんの欲求を探りながらミルクをあげたりおむつを替えたりするでしょう。このことを本章では「まわりの人が赤ちゃんのかわりに動いてあげている」と表しています。赤ちゃんに対する大人の応答的関わりは赤ちゃんと外の世界をつなげる懸け橋となるのだと感じました。

 私は、大人にとって正解ではないことを子どもが発した時に「なぜそう思うのか」を問うことで子どものものの見方が分かって子どもの視野の広がりにつながる、というまきろんの考えが印象的でした。「なぜそう思ったのか」と子どもの意図を探り、もしかしたらそれは間違いではないのかもしれない、そのような考え方もできるね、などと捉えることで、大人にとっての間違いがくつがえされ、子どもの見方を受け入れることができるのではないかと思いました。それによって子どもは自分の考えをさらに出せるようになり、物事に対して多方面から思いを馳せ、考え、視野を広げていくのでしょう。大人が子どもの思考の過程に注目し、「どのように考えたのだろう」と思考の過程に興味をもつことが大切だと思います。


 まきろんがみんなで考えたいこととして提案してくれたのは、赤ちゃんの主体性とは何か、人間にとって「自由」とは何か、の2つです。

 まず、1つ目の疑問に対して、赤ちゃんの主体性を保障するための条件を話し合いました。子どもが発したことを受け止めたり反応したりすることは大切、赤ちゃんの泣きに反応することで赤ちゃんが自己主張できるようになるのでは?、楽しい雰囲気は赤ちゃんにも伝わるから応答的関わりって大切だな、などの意見が出てきました。これらの意見と本章の内容を通して、赤ちゃんにとっての安全基地のような存在(親や保育者など)が必要だと思いました。自分で動き回って探索する際、不安になったり嫌な思いをしたりすることもあるでしょう。そんな時に「怖かったねー。もう大丈夫だよ。」と守ってくれ、避難できる場所があれば、安心して次の探索へと旅立つことができると思います。子どもの探索活動の土台には、愛着形成・信頼関係の築きによる大人の存在があるのだと感じました。

 2つ目の疑問に対して、まきろんは「揺れ動きの中で受け止められたり突き放されたりしながら他者と関わっていくことが保障されていること」が「自由」なのだと考えていました。このことから、他者がいることで人は自由を得ているのだとわかりました。自分にも他者にも自由があるため、自由を実現するためには他者の承認が必要です。他者がいても承認されなければ自由を実現できない場合も考えられますが、他者を介在してこそ自由を得られるのだと感じました。また、自分の自由も他者の自由も尊重するために、互いの自由を互いに承認すること(≒折り合いをつけること)が大切だと思い、子どもにも遊びや生活の中で伝えていくべきことだなと感じました。


 他者がいるから挑戦したり自由を手に入れたりすることができるのだとわかり、他者の存在の大切さやありがたさを感じた時間でした。






火曜日, 6月 29, 2021

6/22 ゼミ『保育の中でとらえる主体性』(山﨑)

 こんにちは。松本ゼミ4年の山﨑です。

 今回は、第二章『保育の中でとらえる主体性』です。担当してくれたのは未咲ちゃんです。これまでの章で、「主体性」とは「その子どもが周囲とのあいだに結んでいる関係の状態」であることについて考えてきました。そこから、2章では「集団」と「主体性」はお互いに絡まり合いながら発展・発達するより糸のような関係であるという話が出てきました。子どもと友だち、モノ、集団との関係は固定されているものではなく、毎日常に変化していくものです。昨日同じ遊びをして一緒にいたからといって明日もそうとは限らないし、今日はどうしても食べたくなかった嫌いな食べ物が明日になって急に食べられるようになることだってあります。子どもから出るより糸は常にその絡まり方を変えながら、複雑に絡まり合っているのだと感じました。

 私は、未咲ちゃんがレジュメに書いてくれた、保育者の子どもへの働きかけの図がとても印象に残っています。保育者が一人の子に働きかけると、何かしらの形でその子が変化します。そうするとその子に関わる別の子にも変化が生じ、保育者が直接働きかけていない子にも間接的に働きかけていることになるのでは?ということを表した図でした。私はその図を見て、実習先で先生がおっしゃっていた「ひとりに向き合うことはクラスに向き合うことになる」という言葉を思い出しました。集団をとるのか、個をとるのかというのはよく聞く話です。私自身も実習中に一人に注目すると周りが見えなくなり、全体を見ようとすると一人ひとりが見えなくなって…という経験をたくさんしてきましたが、その背景には実は時間に追われていたり、この流れでやらなきゃ!という意識があったからかもしれないとみんなと話す中で気付きました。

 未咲ちゃんがみんなで話し合いたいこととして出してくれたのは、「子どもの主体性を大切にする」とはどういうことか、保育者はどうすればいいのかという疑問です。とても深くて大きな問いなので、これが答えだ!というものは出すことは難しいですが、みんなで悩みながら条件を考えてみました。子どもの考える時間を保証することって大事だよね~、子どもと大人との間のやりとりである「揺れ動き」は大切にしたい!子どもが自分とは違う考えを持つ他人のことを受け入れていけるように、保育者が「みんな違ってみんないいんだよ」ということを伝え続けていくことが大事なんじゃないかな、いろいろな意見が出てきました。その中で、未咲ちゃんが「保育者が完璧でいようとしないこと」と言ってくれました。これは名言だ!と思いました。例えば、保育者がピーマンが苦手だったとします。子どもたちが先生にも苦手なものがあるんだと知ることは、世の中にはいろいろな人がいるんだなと、違いを認めていける雰囲気づくりにつながるかもしれません。先生ががんばってピーマンを食べようと挑戦している姿を見て、ぼくもがんばってみようかなと思う子もいるかもしれません。主体性には他者の存在は不可欠です。保育者が子どもにとって一緒に考えたり、悩んだり、迷ったりする存在になることが、子どもの考える時間を保証することにつながり、「揺れ動き」を大切にすることになるのではないかと思いました。

 新しく3年生の2人がゼミに入ってきてくれて、また改めてゼミのみんなで考えたり話し合えたりできることの大切さを感じています。ゼミでの話はいつも私にこれまでなかった考え方をくれます。これからもゼミを通してたくさんのことを吸収して成長していきたいです!



月曜日, 6月 21, 2021

6/15 ゼミ『子どもはどう「自己決定」しているか』(高木)

 こんにちは!松本ゼミ4年の高木です。今回は、第1部、第1章「子どもはどう『自己決定』しているか」(川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房)p26-39)を読み、前回に引き続き子どもの主体性についてみんなで考えていきました。


 今回、この章を担当したのは花。子どもの自己決定の過程を考える中で主体的とはどのような状態を指すのか、今までの自分の抱いていたイメージと比較しながら、この文献から得た新しい発見をみんなに共有してくれました。

 私たちが「自己決定」する時、その決定には他者が介在していることが多いと思います。例えば、可愛い服を買った時、自分一人で決めた気がするけれど「あの子が着ていて可愛かったな」「店員さんに似合うって褒められたな」と自然に自分以外の誰かが関係していることもあります。そして、それは子どもも同じであり、「○○ちゃんがしていたから」のように、自己の基準がある程度作られている大人に比べて、より周囲の人や環境に影響されやすいのではないでしょうか。ですが「主体的な自己決定」と聞くと、人に影響されず、自分の意志や判断による決定であるように聞こえてしまう自分がいることに気が付きました。

 この章では、主体性は他者や環境との関わりにおいてのみ現れると述べられています。主体性があるとされる状態は、自分のしたい事を好きなように、自分だけの力でしている姿ではないということです。普段は進んでご飯を食べない子どもが、今日は自分から食事に向かって行けた時、その子の「今日はご飯を食べようかな…」という思い(自己決定)の裏には「今日は朝お母さんに褒められたから」「みんな美味しそうに食べているから」等周りの様々な環境がきっかけとなっているかもしれません。“子どもの主体性”という言葉は、よく使われ、実際私もよく考えないまま使ってしまう場面もありますが、その『子どもが周囲とのあいだに結んでいる関係』に目を向ける必要性を学びました。

 本章を読み考えていく中で、主体性には見えやすいものと見えにくいものがあるのかもしれないという花の考えがとても印象的でした。前回のゼミで話し合った「主体的であるための条件」の「主体的」という言葉は子ども自身が意欲的であることがこちらに伝わることが前提だったように思います。「したい!」気持ちが見えていること、自分で決めて挑戦することはもちろん主体的な姿と捉えることができますが、子どもを見る大人側が見つけやすかっただけなのかもしれないなと感じました。主体性を周囲との間にある関係と捉えたとき、見えやすくても見えにくくても「子どもには何らかの主体性がある」という考えが私にとって新しい発見でした。


 そして主体性が見えにくい時にも保育者はそれらを感じ取り、支えていく必要があるのかもしれません。子どもが新しい関係を探して、試行錯誤しているときに必要な保育者の援助とは?という花の疑問を最後にみんなで考えました。それぞれが自分の体験などをもとに話し合う中で、大きく分けて2つの大切にしたい援助を見つけました。

 1つ目は、自分で決めた!という感覚を持つことができるような援助です。どんなに周りに影響されたとしても、結局自分で決めて「食べた」ということを一緒に喜び、その嬉しさを膨らましていく関わりが、次の決定の自信に繋がり、繰り返されていくのかなと思います。

 2つ目は、子どもが揺れ動く選択肢や時間などの環境があることです。「こっちにしようかな、あっちにしようかな、やっぱやめようかな」という子どもの揺れ動く姿の裏には、その場に悩む選択肢や時間が存在することが分かります。そして、転園したばかりで不安だった未咲をずっと後ろから見て、頷いていてくれた当時の先生のように、悩んで揺らいでも大丈夫であるという安心感や、自分で選んだものを素敵だねと言ってくれる後押しも必要だなと感じました。もちろん保育者にも「こうなってほしい」という思いはあって、子どもの決定を後押しできないことも、時間がかかってしまうこともあると思います。でもそのような時に、保育者側が「それはダメ!」「こうしなければ…」という思いを固めて選択肢を狭めずに、大人も子どももその関係の中で一緒に揺れ動いていくことが、子どもの自己決定を支えることに繋がるのかもしれないと感じました。


 これから読んでいく内容も「主体性」がキーワードとなっていくので、今週より来週、来週より再来週、みんなの考えがどんどん深まっていくのがとても楽しみです!






月曜日, 6月 14, 2021

6/8 ゼミ『「個人」を尊重しつつ、「個人」を越える営みへ』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙橋です。

 昨年度に引き続き、文献発表が始まりました。今年度は、川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房) をみんなで輪読していきます!今回は、序論「『個人』を尊重しつつ、『個人』をこえるいとなみへ」です。


 今回の担当はりっちゃん。保育における「量」の拡大の裏には子どもや保護者、保育者の「~したい」「子どもにこう育ってほしい」要求が隠されており、それぞれの人間らしさを保障されるべきである。今まで当たり前だったことは本当に絶対なのだろうか、と文献を通して考えていました。りっちゃんの考えを聞き、みんなで考えたことや印象的だったことをもとに話し合いました。


 りっちゃんは実習で、滑り台の上など午前中に遊んでいた好きな場所でお弁当を食べる子どもの姿を見て驚いたそうです。そこには「子どもが楽しかったという思いをもって食べてほしい」という保育者の思いが込められていることを知り、「ご飯はちゃんと椅子に座って行儀よく食べる」という当たり前に疑問を抱いたことを話してくれました。最初は床で食べていたけど、踏まれて嫌だった経験があるから机で食べるようになったという保育者の話から、経験したからこそ「なぜ机で食べなければならないのか」を落とし込めるのだろうという意見もありました。当たり前にも当たり前になった理由があるはずです。当たり前だからそれを絶対守らなければならないということはないでしょう。それを大人が理解したうえで、当たり前を問い直したり、覆したり、子どもに伝えたりすることが大切なのだと思います。少し話がずれるかもしれませんが、当たり前は当たり前じゃないかもしれないという意識をもつことで、自分にとっての当たり前は他者にとっては当たり前じゃないかもしれないと、違いの認め合いにもつながるのかもしれないと思いました。


 りっちゃんの問いかけである「主体的って具体的にどんな姿?」をもとに、“主体的であるための条件”についても議論しました。自分から「したい!」思い(意欲)がある、興味関心がある、自分の経験を振り返る機会がある(他者を通して振り返ることで他者を許容でき他者の主体性を支えることができる)、自分を認めてくれる・安心できる環境である、「したい!」ことを面白がってくれる人がいる、という意見が出てきました。これらの意見から、1人じゃ主体的になれないという展開になったのが印象的でした。自分を認めたり理解したりしてくれる他者がいるからこそ「したい!」を実現できる(主体的になれる)のでしょう。私はこの話から、信頼関係と主体性がつながっているように感じました。初対面の人やあまり話したことがない人に対して自分から話しかけるのをためらってしまいますが、「この人なら私の意見を受け止めてくれる」と思える人には、自身の意思や悩みなどを自分から打ち明けることができると思います。そのように考えると、保育所保育指針にある「保育士等との信頼関係を基盤に、一人一人の子どもが主体的に活動し」という部分には、「信頼できる他者がいるからこそ子どもが主体的になれる」という意味が隠されているのかもしれないと思いました。


 これから読んでいく第1章から第4章においても、子どもの主体性が議論の軸となっていきそうです。これまで様々な授業で主体性という言葉を聞き、考えてきましたが、主体性の具体的な姿をイメージしたり意味を説明したりすることは難しいです。今後授業や保育現場でもきっと多く耳にしたり使用したりすると思います。主体性とは何か。みんなと一緒に考え、深めていきたいです。



月曜日, 8月 31, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿 完結編『「子どもの世界」を社会全体で守るために―家族主義をどう乗り越えるか』(山﨑)

 こんにちは。松本ゼミ3年の山﨑です。

 今回は、終章 小西祐馬『「子どもの世界」を社会全体で守るために―家族主義をどう乗り越えるか』を読みました。この本をみんなで読みながらこれまでいろいろなことを考えてきましたが、ついに最後の章にきました!一人では分厚くて読むのが難しそうな本でもみんなで読めばあっという間で「みんなで一緒に」の力はすごいなと思います。

 私はこの章を読み「時間の貧困」というものに着目しました。時間の貧困は金銭的な貧困よりも見えにくいなと感じます。時間のなさは心の余裕を奪い、子どもが「遊び」に夢中になれるゆとりも奪ってしまう、重大な問題なのになぜあまり取り上げられていないのかを考えながら議論を進めていきました。本章で出てきたニューヨークタイムズの記事で取り上げられていたニシマサさんの一日はとても多忙に見えました。仕事や家事に加えて、子どもの送迎や宿題を見たり、保育所の持ち帰り仕事などやることは山積みです。私はこのニシマサさんの日々のスケジュールを見て「大変そうだな…想像しただけで疲れるかもしれない…」と思ってしまいましたが、みんなでニシマサさんの記事について話をしているときに「でもニシマサさんはこれを大変だと思ってるのかな?」という意見が出てきました。記事の中にニシマサさんはどう思っているかは一切書かれていません。きっとニシマサさんはこの生活を淡々とこなしているのだろうなと思いました。ここから私が思ったのは、時間の貧困の中にいる当の本人が、それが問題だと気付いていないことが問題だということです。誰かがそれは当たり前ではないよと言わないと気付くことができない、時間の貧困問題は根が深いなと感じました。

 日本の家族主義やジェンダー平等、女性の権利の保障など解決するにはいろいろなことを一つずつ変えていかなければならないことが分かりましたが、私たちにできることは限られています。私たちがこれからできることはなんなのかみんなで考えました。保育者として子どもの遊びを保証していくために、8章の「きんしゃいきゃんぱす」で出てきた領域のグラデーションを保育室で実践してみたらどうかな。保育所のお迎えの時間に、家に帰ってごはんの用意をしないといけないけど、ちょっとおしゃべりしてほっとできるような場所に保育所がなれたらいいね。子どもが保育所でいっぱい遊んで、満足して機嫌よく帰ってくることが親の心の余裕につながり、そこから時間の余裕が生まれるかもしれないね。小さなことだけど私たちにできることはたくさんあるんだなと思いました。これからも自分にできることは何か考え、小さいことから変えていこうという姿勢を大切にしていきたいです。

 ゼミでこの本を読み、考えたことについて話し合う中で自分以外の人の考えに触れ、たくさん刺激をもらいました。本がきっかけとなりいろんなことを話せるんだなと感じました。普段の生活や授業でゼミで話した内容が出てくると、3年の3人で「これゼミで出てきたことだよね!」「ゼミで話したことってこういうことだったんだ!」と話せたこともとても嬉しかったです。ここでみんなで考えたことを活かしてまたいろいろなことを考えていきたいなと思います!






日曜日, 8月 30, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『子育ての分断と連続』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ3年の髙橋です。今回は、岩田美香「子育ての分断と連続」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, p.270-286]を読みました。


 この章は親の育児不安を中心として子育てについて書かれており、私は「育児不安」と「他者との比較」に着目しました。

 近年では核家族化によって育児機能が家族に集中し、親は多様な育児資源や育児機会を取捨選択して子どもに届ける役割を担っています。そのため、わが子の育ちは自分の選択によって決まるかもしれないと責任を感じる親も少なくないでしょう。それを感じやすいのが「他者と比較」する場面だと思います。比較した結果、他者との差を感じて悩みや不安を抱き、その差が自分の選択の責任だと感じてさらに悩みや不安が増幅していくのではないかと考えます。


 みんなの感想を聞く中で、他者と比較する場面は私たちの生活に沢山存在しているのだと感じました。育児資源や育児機会を利用していく中で知らないうちに他者と競争させられていたり、SNS上でパッと偶然目に入ってきた情報によって他者と比較してしまったりすることもあります。家族の外部とつながればつながるほど得られる情報が多くなったり人との関わりが生まれたりしますが、外部を知る分他者と比較する(比較してしまう、比較せざるを得ない)場面に多く直面するのだと思いました。


 「他者との比較」によって「育児不安」になることもあるのだと知り、保護者の育児不安を少しでも軽減するために保育者の関わり方において何を心がけるべきか話し合いました。ものさしの多様化、子どものできていること(今)を伝える、何に不安を感じているのかを知る、話せる雰囲気づくり、保護者を認める、重く受け止めすぎずに聴く、と沢山の心がけるべきことが挙がりました。これらの共通点を考えると、“安心”。子どもの安心と同じように保護者の安心をも確保することが大切だと思います。保護者にもしっかり目を向けることの重要性をとても感じました。


 この本を通して、今まで知らなかったことや今まで何となく疑問に感じていたことを学ぶことができ、自分の世界が広がったように感じます。読みながら自分の経験と結びつけて考えたり、将来こんな風になりたいと思い描いたりして、過去のことも未来のことも考え深められて楽しかったです。この本が出会わせてくれた新たな興味や疑問をこれからも考え続けていこうと思います。




金曜日, 8月 28, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『子どもの健康と貧困』(髙谷)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙谷です。

 今回は、佐藤洋一「子どもの健康と貧困」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019,明石書店,p249-267]を読みました。


 この章では、貧困と健康の関係を医療現場でみられる事例を基に示されていました。貧困は一時的影響だけでなく、慢性的に健康に悪影響を及ぼす可能性があることが分かりました。


 本章から、二つのことについて考えました。一つ目は、貧困のつながり・連鎖についてです。貧困は健康面、経済面などに悪影響をもたらし、それに伴い精神面や人間関係などにも影響が出てくる場合があります。このような一時的に広がっていく影響を貧困の横のつながりと捉えました。次に、本章で取り上げられていたような慢性的な影響によって、貧困が親から子どもへと連鎖していくことがあります。これを貧困の縦のつながりと捉えました。横のつながりは図で示せるような単純なものではなく、貧困から健康面や精神面に影響が出る場合もあれば、健康面や精神面の不調が貧困につながるというケースもあります。縦のつながりは順序性こそありますが、「不健康な人が必ずしも貧困である」という文が成り立たないように、縦のつながりは可能性の問題であり、統計的にはつながる可能性が高くても、絶対ではないというところが注意するべき点だと考えました。


 二つ目は、貧困のとらえ方についてです。「医療現場では問題行動にばかりに目が行きがちで、その背景にある貧困に気づきにくい。」(p.253)これは、保育現場でもよく言われることだと思います。背景に挙げられるものは貧困だけでなく、発達障害や家庭環境など様々ですが、問題行動は見えても背景が見えていない場面は多くあるのではないかと思います。一方で、子どもの背景を知り、貧困であると分かった時、問題行動のすべてを貧困が原因であるととらえてしまうことは、また違った問題へとつながるのではないかと考えました。「貧困家庭の子どもだから、、、」というような貧困のフィルターで子どもを見てしまうと、子どもとの関わり方が良くも悪くも変わってくると思います。

 それでは、貧困をどう捉えていけばいいのでしょうか。話し合う中でとても府に落ちた意見がありました。それは、貧困をその子の特徴の1つとして捉える考え方です。身長が高い、低い、運動が好き、絵を描くのが得意など、人はそれぞれ異なる特徴を持っています。貧困もその特徴の1つとしてとらえるのです。特別支援の考え方として、全員に同じ支援をするのではなく、必要な人に必要な支援を行い、その結果として、同じようなことができるのであれば、それは贔屓ではなく、適切な支援であるという考え方があります。貧困という特徴があるとき、貧困であることが必ずしも原因であるわけではないと思います。そのことに気づいたとき、他に可能な支援があるのではないかと視野を広げることができるのではないかと思います。そうした気づきにくい部分に気づくことが必要なのだと思いました。


 こうして考えを巡らせながら、やはり、貧困のつながりの強さから連鎖は止められないのではないかと考えてしまったため、連鎖を止めるために保育の現場でできる支援はなんなのかについて考えることにしました。ネグレクトを受けていた親は子どもへの愛情の注ぎ方が分からず、同じように子どもに対してネグレクトをしてしまうことがあるという話をよく聞きます。しかし、それは必ずしもそうではないだろうと考えます。ネグレクトを受けていた人は確かに親からの愛情は受けられなかったかもしれません。しかし、保育者や、周囲の大人など、その子に愛情を注ぐことができる大人が全くいなかった訳ではないと思います。そう考えると、そうした周囲の大人が愛情を与えなかったことにも原因があるのではないかと考えられます。確かに、ネグレクトを受けている子どもは愛情を受け取る機会は少ないかもしれません。しかし、周囲がそのことに気づき、愛情をさりげなく与えることで、大人になった時に愛情の注ぎ方が分からないということにはならないのではないでしょうか。そして、これこそが保育者のできる連鎖を止める援助なのではないかと考えました。保育所に来る子どもたちを笑顔で受け入れ、たくさん遊ぶ機会を与え、食べて、寝て、精いっぱいの愛情で子どもたちと関わることは子どもにとって心に残る思い出となるはずです。実際、保育者を目指す人の中には、幼児期に関わってくれた先生にあこがれて、とか、一緒に遊んでもらって楽しかったことがとても印象に残っているからなどが保育者を目指したきっかけの人がいます。このように、大人になっても幼児期の思い出は強く心に残っている人が多くいます。保育者が関わることができる時間は人生において微々たるものかもしれません。しかし、幼児期の思い出が小学校以降よりも心に残っているのは、楽しかったことや愛情をもってかかわってくれたことが多くあったからではないでしょうか。保育者の関われる時間は長くてもたったの6年、されど6年なんだと感じました。その大切な時間に最大限の愛情をもってかかわることができる保育者になりたいなと思いました。


 この本を通して、保育者の無力さ、大変さ、保護者の大変さ、難しさなど、様々な負の部分に触れてきました。しかし、たくさんの負の部分を知ると同時に、議論を重ねる中で保育者の役割を再確認することができたり、保育の可能性に気づいたりすることができました。まだまだ答えの出ない問いにもたくさん出会いましたが、これからまだまだ考える余地があるということで、これから少しずつ考えていきたいと思いました。1つの章から疑問を持ち、様々な人の意見を聞き交流することで自分の知らない保育の姿、役割を知ることができ、とても有意義で濃い時間を過ごせたと感じています。ありがとうございました。







月曜日, 8月 24, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『放課後の地域の居場所から考える』(高木)

こんにちは!松本ゼミ3年の高木です。


 今回は、山下智也「放課後の地域の居場所から考える」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験―子どもの世界を守る』2019,明石書店,p.221-245]を読みました。


 この章は、私が小学校のころの放課後の過ごし方や、住んでいた地域の現状と重ねて考えることができ、私にとってはとても興味深い章でした。また、「きんしゃいきゃんぱす」の例を見たり、私は経験したことのないような様々な“放課後事情”をゼミのメンバーから聞いたり、自分にはなかった考えを聞いたり、することで“子ども放課後”の在り方を改めて考えさせられました。


 本章から、子どもが主体的に遊びを展開し、その子らしく居られる場所をもつためには、子どもが自らその場所を自分の居場所にしていく「自己化」のプロセスが重要であると学びました。丁度私が小学3年生から「放課後子ども教室」が始まったことを覚えています。放課後子ども教室が始まり、学校の先生の監視下ではなく、今まで自由にいつでも誰とでも遊べていた放課後から一変し、「この遊びをして遊ぶ」「〇時からは室内遊び」「~ちゃんは子ども教室に入ってないから一緒に遊ばないで」と、様々な制約が加えられとても不自由な世界に変わったと感じていました。ここには遊ぶ「空間」「時間」「仲間」がなかったわけではないのにどうしても居場所として“自己化”されませんでした。今回のゼミでの議論を通して、子ども教室のなかった放課後と同じだけの「3つの間」はあったはずなのに、何が自分たちの居場所として許せなかった部分なのかを再度考えたとき、今まで存在していないようで子どもの中には存在しているようなワクワクした時間であった「放課後」が一日のプログラムとして組み込まれ、大人のために、大人の監視下に置かれているように感じることが嫌だったのではないかと感じました。


 そしてこれは、「子どもの放課後のサービス化・市場化」についての話とも繋がるなと思います。地域との関係性も希薄となり、子どもが安全に過ごすことのできる環境が少なくなってきたこと等、子どもの放課後を「子ども教室」や「学童保育」に任せる必要が生じてきました。私たちの地域でも丁度私が小学生の時期が転換点だったのかもしれません。そして、子どもの安全に過ごすことのできる放課後は、「子ども教室」や「学童保育」等によって保障することができると考えられます。放課後は子どもにとって学校の時間、でもなく家での時間でもない一日の中での特別な時間であり、その時間を経済的資源として捉えている場所ではなく、その時間を子どもに保障する場所として存在するべきだと感じました。


 ただ、見方を変えれば、「子ども教室」「学童保育」にお金を払うことは、子どもの放課後が安全に保障されていること・その時間分の子育てに対する対価という捉え方もできるのではないでしょうか。今まで「お金」が発生しなかった放課後に、「お金」が関係するようになったことに疑問を感じていたのですが、「長い目で対価を支払う・今まで自分たちが受けてきたものを後世に返していこう」という大きなサイクルでの考え方が減少しているからなのではないかという考えが、とてもしっくりきました。現代の社会の構造からなのか、地域との関係性が薄くなっているからなのか、詳しくは分からないのですが、その場でその時目に見える形での価値化、としてお金に頼らざるを得なくなったのかな、とゼミでの話し合いを振り返り、感じました。だからこそ「放課後」は「サービスとしてお金で買った時間」ではなく、「子どもの遊びが保障される時間」としてあるべきではないでしょうか。子どもの放課後の存在とその大切さに気付き、「子ども教室」や「学童保育」でのこどもの遊びは保障されていくべきだと感じました。




土曜日, 8月 22, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『貧困対策における保育の再定位に向けて』(片岡)

 こんにちは。片岡です。松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, の第11章、萩原久美子「貧困対策における保育の再定位に向けて」を読みました。


 この章では、利用者の半数強が生活保護・非課税世帯というA保育所の事例があげられています。様々な状況に置かれている家庭や子どもを、延長保育(22時まで)、休日保育、一時保育なども実施する多機能型保育所として受け入れています。


 そんなA保育所の事例を読んで話題に上がったのは、保育組織に「幅=遊び」をもたせることの重要性です。この「遊び」は、子どもの“遊び”とは少し違った意味の、工学概念でいうところの「遊び(機械設計において、急激な力が及ぶのを防ぐために部品の結合にゆとりをもたせたり、物と物との結合部にゆとりを設けることでゆがみを減少させたりする、安全装置の一つ)」です。A保育所では、厚みのある職員体制にする、多元的な特別保育事業を実施する、縦割りによるクラス編成をするなどの工夫を行い、保育組織に「遊び」をもたせています。「遊び」のある職員体制が、保育士の研修や休暇をカバーし、結果的に保育組織が安定的に維持されています。


 保育組織が安定的に維持されることで、保育の豊かさ、様々な状況に置かれている家庭や子どもを受け入れる素地、余裕が生まれ、そのことが真の意味での「一人一人を大切にする保育」へとつながるのではないか。

 飲み会のための夜間延長保育の利用、自宅までの送迎等、ともすれば「一つの家庭で許したら、全員許さなければならなくなるからできない」と切り捨てられてしまうようなことも、そう捉えるのではなく「一人一人を大切に、その家庭や子どもの状況、理解に応じた関わりをしていく」という視点で、必要なところに必要な保育をしているA保育所。考えてみれば、このことは保育の基本であるにも関わらず、苦情が出た時に説明のつかないことにならないよう、平等に一律のルールを設けるという場面が多いように感じる昨今の保育現場。平等とは何なのか。一律のルールは、真の意味での「一人一人を大切に」ではない。


 また、保育者にとっては何があったら「遊び」があることになるのか、という意見も出ました。時間の余裕?保育者がたくさんいること?「しんどい」と言える環境?等々考える中で、私は大変さもしんどさも分かり合える職場環境かなと思いました。10年ほどの保育者経験の中で、納得がいかないことやつらいことも多々ありましたが、同僚や上司から「大変やったよね」「ありがとう」と声をかけてもらうだけで、乗り越えられることもありました。

 大変さもしんどさも分かり合える職場環境のためには、まず時間や保育者数の余裕が必要なのかもしれません。本章にも『最小限の物理的空間に、またその安全装置である「遊び」が欠如していることを取り上げずして保育士個人の質を問い、「保育の質」を語る行為は、保育の場を最小限の資源で最大の効果を引き出す生産至上主義的空間へと転換することにほかならない』とあります。


 保育組織が安定的に維持できるための制度的なことはまだまだ追いついていない中でも、貧困はじめ様々な困難な状況に置かれた家庭、子どもが存在しています。保育者としてその現実に向き合い、自分たちの手で生みだせる職場環境の「遊び」を大切に、真の意味での「一人一人を大切にした保育」をしていきたい、本章での議論またこの本全体を振り返ってそう感じました。




木曜日, 8月 13, 2020

7/28 ゼミ 15分せんせい『広告紙のコマ』(山﨑)

こんにちは。松本ゼミ3年の山﨑です。

今回の15分先生はみさき先生でした!

みさき先生の、保育所での素敵なエピソードとともに「広告紙のコマ」を紹介してくれました。


 コマはどんぐりや折り紙などいろいろな物で作ることができますが、広告紙を使ったコマは初めてでした。まずコマの芯となる部分を広告紙を巻いて作ります。その芯に太さを変えて巻いたケンをぐるぐる巻きつけて...あっという間に完成です!

 紙でケンを作る遊びは私も小さい頃好きでよくしていたので、その頃の感覚を思い出しながら夢中になって広告紙を巻きました。だんだん会話がなくなっていくほど、みんなで真剣にコマを作りました。夢中になって遊ぶ子どももきっとこんな気持ちなんだろうなと思いました。できたコマを回してみると、想像していたよりも安定して回る!回った瞬間には「おー!」と歓声が沸きました。どうしたら安定して回るのかなと考えて、広告紙を巻きつける位置を動かしてみたり芯の部分を少し尖らせてみたりしました。こうしたらいいんじゃない?と誰かが出してくれたアイデアを聞いて、自分もやってみる。やってみることで新しい発見がたくさんありました。回すといろんな色が混ざって見えてとてもきれいです。ずーっと見ていても飽きないなと思いました。広告紙はいろんな色があるので、それも広告紙で作る良さかもしれないと思いました。「自分だけのコマ」というのが嬉しくてだんだん愛着が湧いてきました。

 自分のコマを友達と一緒に回してどっちが長く回るかなと勝負するのもとても楽しかったです。上手に回せる人を見て、どうやって回してるのかなとよく観察したり、コツを聞いたり、友だちとのコミュニケーションも生まれるなと思いました。個人的な話なのですが私はコマに対して苦手意識がありました。今まであまり自分から挑戦してこなかったのですが、今回の活動で「回すのじょうずだね!」とほめてもらったことがとても嬉しくて少し自信がついたような気がします。自分のこの体験から、私のように苦手だなと感じている子もこの広告紙のコマだったら楽しんで遊べるかもしれない!と思いました。とても楽しい時間でした。みさき先生、ありがとう!











月曜日, 8月 03, 2020

7/28 ゼミ『地域子育て支援拠点事業の多様なあり方—夜の多世代型子育てサロンはじめました』(高木)

 こんにちは!松本ゼミ3年の高木です。今回は、小林真弓「地域子育て支援拠点事業の多様なあり方―夜の多世代型子育てサロンはじめました」(松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店)を読みました。 
 レジュメを担当してくださった片岡さんの考えを聞き、「地域子育て支援事業のあり方も、もう少し多様性があってもよいのではないか?」(p.216)という思いが実現化したその背景には何があったのが、実現化させた要因は何かという問いに向かって議論していきました。少しその問いの答えとはずれるのですが、私の考えたことを書きたいと思います。
 私はまだ、子育て広場、地域子育て支援拠点、サロンと聞いても、保育士の養成課程にいる者としても、もちろん母親という立場としてもまだその雰囲気を体験したことはありません。自分にとっては未知の世界ということもあり、なんとなく緊張感のあるそんなイメージでした。しかし、本章で取り上げられている「ねっこぼっこのいえ」は、自分の意思で誰でも利用でき、かつその中の雰囲気もゆったりとした場所であるという印象を受けました。しかしこのような「子育てを支援する場」には居心地がよい場所と、次からは来なくてもいいかな〜と思ってしまう場所がやはりあるようです。何がその違いを生み出しているのか。今回の話し合いで2つ大切なことを見つけました。
 1つ目は、その場に「あそび」があること、そしてその場が「あそび」であること。「緊張する面談や会議の場にお茶が一つあれば、少し場が和む…」という意見がありました。面談や会議では話し合うこと、コミュニケーションが目的です。ただその目的を果たすためだけの場だと少し緊張した雰囲気になるなと感じます。場を和ませる何か「あそび」があることがその場に足を運びやすくさせるのではないでしょうか。そしてこの子育て広場のような場所を「学校でも家庭でもない、行かなくてはいけない場ではなく自由意思で行くフリーな場」(p.212)と捉えた時、その場所自体が人の生活の中でほっと一息できる「あそび」と感じられるものかどうかが関わってくるのかなと思いました。
 2つ目は、“みんな同じ”を強いる場所ではないこと。例えばみんなに同じ方法で支援することは、支援する側は単純ですが、みんな必要だと感じていること、悩んでいること、考えていることは同じではありません。その人に必要な支援があるのではないでしょうか。支援は一例ですが、“みんな同じ”にしようとすることは居心地が悪いと感じさせる要因とも言えるのかなと思いました。
 「出会ってしまったその人のことを、一緒に過ごす中で、知らざるを得なくなり、また知るなかで多面的な視点を持つようになった」(p.215) 私はこの文章が今回の話し合いのキーセンテンスなのではないかと感じました。何か新しいことへ踏み込むことができたその背景の一つには、“出会い”があり、そして“知らざるを得なくなった”状況が視野を広げ、「必要」や「需要」を見つけることができた、行動に移すきっかけができたのかもしれません。人と出会うことは逃げられないし、出会ってしまったことを変えられないし、でもそれが私たちの視野を少しずつ広げていくのです。そして、出会った人と、出会える場所を大切にしたいと感じさせられました。ゼミでの“出会い”にも感謝です!!


月曜日, 7月 27, 2020

7/21 ゼミ『やはり、授業がプレイフルであること』(山﨑)

こんにちは!松本ゼミ3年の山﨑です。
今回は、石川晋「やはり、授業がプレイフルであること」(松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店を読みました。
 今回の担当である高谷さんの考えを聞き、「プレイフルである」とはどういうことなのかみんなで話を深めていきました。
 様々な事例を読む中で、教科書の内容を教師がただ教えるだけというような受動的な学びではなく、身近な事柄をテーマとしたディベートなどの能動的な学びがプレイフルな授業につながるということが分かりました。そこから、子どもは自分の生活に関連していることに興味を示すのかな、実験するときに理科室に入るとわくわくする!というようなプレイフルは空間が必要なんじゃないか、大人が準備周到に全部を説明したり用意したりすると、こうしたらどうなるんだろう?という子どもの楽しみを奪うことにつながるよね、いろんな意見が出てきました。いろんな選択肢があって、子どもが自分でその中から選べることは子どもの主体性にもつながる。この章で紹介されていた「ごんぎつね」の授業ではまさにこの「選択肢」がありました。課題は10個程提示されていますが、子どもたちは全部するわけではなくその中から選んで取り組みます。この授業を見た時に「すっごい楽しそうだけどこんな授業が毎時間だったら疲れるかも…」という感想が出てきました。私もそうかもしれないと思いました。なんで疲れるのかなと考えてみて分かったことは、選択し続けるのには負荷がかかるということ。そして、その授業がいつもと違うと感じるからだということです。「今日だけやっていいよ!」のようにそれが行事的になってしまうのではなく日々の生活の積み重ねで、日常がプレイフルであることが大事なんだと思いました。

「なんでもやっていいよ」「好きにしていいよ」と急に言われて、子どもたちはできるかというとそうではありません。「なんでもしていいよ」は一見子どもの力を引き出しているようで、実はそうなっていないことがあるんだなと考えさせられました。

 話をしていく中で、プレイフルであるには「選ぶこと・生活につながること」よりも子どもがその先で何を「自分で見つけていくのか」が重要であるなと感じました。子どもが自分で見つけていけるように大人が場だけではなく、どんな仕掛けをつくっていけばいいのか、これから私たちがずっと考えていかなければならないと思います。

 毎回ゼミで他の人の考えにたくさん触れ、刺激をもらっています。まだまだ自分は深く考えることができていなかったり、考えを上手く言えなかったりすることもありますが、これからもいろんな考え方に触れ、自分の視野を広げていきたいなと思います!


金曜日, 7月 24, 2020

7/21 ゼミ 15分せんせい『カラフル万華鏡』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ3年の髙橋です。
 今回の15分先生は はな先生でした!
 「牛乳パックで作るカラフル万華鏡」を紹介してくれました。

 一般的な万華鏡は仕切りを作ったりミラーシートを作ったりと意外と大変。でも、今回作った万華鏡はとても簡単!牛乳パックの口を四角錐に整えて銀紙を貼り、模様や絵を描いた面を内側にして画用紙をその牛乳パックに巻き付けます。牛乳パックを動かすと、銀紙に映った模様がとてもきれいに見えます。

 いろいろな色のペンで思い思いに模様や絵を描いて、作る過程でも楽しんで活動しました。太い線で描いたほうがより見えやすい!ストライプ状に描いたり塗りつぶしたりするとよりきれいに見える!と、ペンを滑らせながらいろいろな見え方について発見しました。また、牛乳パックの口の形を変えたらどうなるのだろう?と思って平らな四角や半球に変形してみたり、銀紙ではなくアルミホイルを貼ってみたりもしました。いろいろな疑問をもって工夫し、そこから新たな発見が生まれるということの楽しさや爽快感を感じました。

 自分が絵や模様を描いているのに銀紙に映る模様を予想することはできない、ということも万華鏡の魅力だと今回気付くことができました。描いたものによって見える模様が違い、みんなで互いに作ったものを見せ合って観賞するのも楽しかったです。
 はな先生、ありがとうございました!!





月曜日, 7月 20, 2020

7/14ゼミ『みんなが気持ちいい学童保育』(片岡)

 こんにちは。片岡です。松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, の第五章、長谷川佳代子「みんなが気持ちいい学童保育」を読みました。

 この章で何度も出てくる「面白い、楽しい、気持ちいい」というキーワード。中でも、子どもにとって“気持ちいい”と感じられる社会とはどんな社会なのか、ということについて考えました。

・“面白い”や“楽しい”はワクワク。“気持ちいい”は居心地がいい、過ごしやすい。
・保育で言う「教育」が“面白い”や“楽しい”、「養護」が気持ちいい。
・学校にあるのは“面白い”や“楽しい”
・貧困の子どもを考えた時、“面白い”や“楽しい”は支援の手などで満たすことができるが、“気持ちいい”は難しい。
・“面白い”や“楽しい”が満たされても、“気持ちいい”は満たされないことがある。

 子どもの保育や遊びについて考えるとき、「面白い」や「楽しい」は追求するけれど、それだけでなく、それらの土台ともいえる「気持ちいい」についても大切にしなければならないと感じました。

 そして、自分が子どもの頃に学童保育に行っていた経験や、行ってみたいなと思った経験、いま我が子を学童保育に預けている経験や、以前預けていた経験など、それぞれの立場から、意見を交わしました。

 学校のようにできる/できないと評価されることがない、先生でも保護者でもない第3者としての指導員がいて自由に話せる、まわりの目を気にせずゆったり落ち着いて過ごせる・・・そういったことが保証されている学童保育は、子どもにとってまさに“気持ちいい”場所だろうと、子どもの視点から学童保育を考える時間になりました。


土曜日, 7月 18, 2020

7/14 ゼミ 15分せんせい『スポンジボール』(山﨑)

 こんにちは。山﨑です。

 今回の15分先生は りさ先生です!
 スポンジを使って作る「スポンジボール」を紹介してくれました。

 材料は台所用スポンジと輪ゴムだけ!とっても簡単に作れます。スポンジをはさみで細長く棒状に切ります。切ったスポンジを輪ゴムで束ねると...ふわふわスポンジボールの完成です!

 カラフルなスポンジでみんな思い思いのスポンジボールを作りました。スポンジの切る太さ、量、長さ、輪ゴムのしめ方で完成が全然違います。きれいな球に近いものもあれば、ウニのようなものもあって、こういうのって性格がでるね~など話をしながら夢中になってたくさん作りました。最初りさ先生が作ってきてくれたスポンジボールを見て、難しそう!と思ったのですが、思ったより簡単に作ることができて驚きました。スポンジのこんな使い方があったんだ!と、また自分の中の引き出しが一つ増えました。

 スポンジの感触が気持ちよく、握ると小さくなって、またもとに戻るというのがおもしろい!ずっと触っていたくなります。ただボールとして転がしたり投げたりしても楽しいし、水に濡らしたらどうなるんだろう、絵具をつけてスタンプのようにしても楽しそう。みんなでスポンジボール遊びの広げ方を考えることができた時間でした。まだまだ可能性がありそうです。

 りさ先生ありがとう!