以前の記事でも書きました、同僚の先生ほか研究者仲間と7月から月1回のペースで読んできた、ベイトソン『精神の生態学』の読書会が先月、完結しました。松本・松井・常田も参加していました。
学べた点、今後の研究ほかのアイデアに活かせそうな点は多岐にわたるのですが、なかでも特に印象に残ったのは、生物の進化を考える際には、単線的なそれではなく、2つのレヴェルの時間を設定する必要がある、という点です。
生物がその姿を変化させるとき、一般に考えられるありようは次の2つです。
一つは、一生を通じて非可逆的、すなわち元に戻れないタイプの変化。これは、遺伝子レヴェルのものとみなすことができます。
もう一つは、可逆的な、つまり環境に合わせて選択できる変化です。これは、体細胞レヴェルのものとみなすことができます。
これら2つの変化を「効率」という面に照らし合わせれば、有利なのは前者、すなわち遺伝子レヴェルの変化です。「その場に合わせて調整する」プロセスを常に必要とする後者に対し、前者においては、想定できる状況や環境に合わせた構えがあらかじめプログラムされているわけですから。
しかし一方で、遺伝子レヴェルの変化では対応できない状況があります。
それは、「あらかじめ想定されていた状況や環境」が、何らかの理由で急激に、とても大きく変化した場合です。
そのような状況は、一つの有機体の過ごす時間(つまり、80年とか90年とか)の中では出会わないことが多いかもしれません。
しかしながら「地球」という時間から考えてみると、歴史は私たちに、そのような「急激で大きい変化」に出会わざるを得ない瞬間が、一定の間隔で訪れることを教えてくれます。
そのとき、ヒトはいかに振る舞えるか。想定できる環境に合わせることを最大限の効率で追求し、それを非可逆的なプログラムとして自らに書き込んでいたならば、「急激で大きい変化」はまさに「想定外」のものとなる。ヒトがもし、遺伝子レヴェルの変化しかもっていな生物であったならば、環境の激変についていけず、みな滅んでしまっていたかもしれません。
ヒトという種が、なぜ生き残ってきたのか。
わたしたちの先人は、今、目の前の環境にまったなしに適応して振る舞うことだけを追求してきたのではなく、最大限の効率はちょっぴり犠牲にしても、自らの構えをひとつに決めてしまうことなく、その場に合わせて自分なりに調整するプロセス、すなわち個々の個体が主体的に選択し、生きる余地を残してきたのでしょう。
私たちが今生きているのは、おそらく、先人がそういった道を選んでくれたからこそ。
歴史をふまえ生きていくとは、そのような道のりに思いを馳せることではないかと思うのです。
短いそれと長いそれ、2つの時間を考えながら、ヒトは生き残ってきた。
保育や教育の中で、そのことの持つ意味を改めて考えていきたいと思います。
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