水曜日, 6月 12, 2013

芸術士と、運動会と、カンボジアと(松本)

 先日の記事で触れました、保育所・幼稚園に派遣されている芸術士のみなさんとのミーティングの様子について、以下の芸術士のウェブページでも紹介いただきました。

http://geijyutsushi.archipelago.or.jp/?p=2877

 保育における「運動会」のことを考えるとき、青年海外協力隊員として、カンボジアの保育現場で運動会にチャレンジした教え子、むぅさんのことをいつも想い出します。
 走る、とはまっすぐ走ることだけではなく、いろいろな楽しみ方がある。「遊び」の先には学びがめばえることを伝えたい、何より体感してほしいと考えたとき、きっと「運動会」というイベントを工夫することが最適の教材だったのだろうなと。
 ここからは、保育における「遊び」と「学び」の特殊な関係を乗り越えるうえでは、大人から子どもへのダイレクトなメッセージではなく、教材や活動の工夫が鍵となることを改めて学ぶことができるように思います。

 そういえば、彼女が学生時代、グループで取り組んだ卒業研究は運動会を扱ったものでした。人生、どこで何がつながるかわからないものです。

 カンボジアでの彼女の奮闘の記録は、岐阜県の「ぎふ国際協力大使からの便り」のページから読むことができます。よければ、こちらも、ぜひ。(No.9より前のあたりです。)
http://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/kokusai-koryu/koryu/jica/kyoryokutaishi/

日曜日, 6月 09, 2013

手が届きそうな「保育づくり」を目指して(松本・松井)

 少し時間が経ってしまいましたが、日本保育学会第66回大会(2013.5.11-12. 中村学園大学・中村学園大学短期大学部)にて、附属幼稚園の先生方と一緒に、以下のタイトルで研究発表をしてきました。

松本博雄・松井剛太・西宇宏美・九郎座仁美・水津幸恵 2013 幼児の学びから立ち上げる計画と保育づくりに関する研究 ―ラーニングストーリーを試行して― 日本保育学会第66回大会発表要旨集, 597.

 幼稚園や保育所における保育実践は、教科ではなく「領域」という枠組みを用いて、「遊びを通じての総合的指導」による学びの成立を目指す営みであると言われます。よって、“よい”保育実践とは何か、言い換えれば保育の「質」を検討するうえで、「遊びの質」とそれを介して生じる子どもの経験を問うことは欠かせませんし、そのための具体的な手立ては、保育をつくるうえで必須のものとなります。
 いっぽう、この種の問題を考えるうえでもう一つ鍵になるのが、保育実践とは、非常に多くの保育者によって担われているという事実です。つまりそれは、力量ある一部の実践者が担うことのできる“正しい”手立てを追求すること以上に、多様な保育環境を背にしている保育者が、ひとりでも多く実践できるような手立てが求められるということに結びつきます。
 そのような観点をふまえ、今回の報告では、ニュージーランドで用いられている「ラーニングストーリー」を参考にアレンジした方法で、私たちなりの保育づくりのありようを考えてきました。
 保育の記録と計画において、世界的に見れば「個」の変化に焦点をあてたそれが多いいっぽう(ラーニングストーリーもその例外ではありません)、「クラス」を単位としたそれが積み重ねられてきた歴史があるのは、日本の保育の特徴ではないかと思います。これらをどのように交錯させていけるのか。さらには私たちのこれからの保育にどのように結びつけていけるのか。研究グループの課題として、引き続き検討していきたいと思います。

土曜日, 6月 01, 2013

子どもの「発見」を支える(松本)

  昨日、NPO法人アーキペラゴにて、芸術士の方々とのミーティングにお邪魔してきました。
  「芸術士派遣事業」とは、香川県高松市の事業として委託を受けたNPO法人アーキペラゴから、市内の保育所・幼稚園・こども園等に定期的に派遣されるアーティストが、保育者とともに保育をつくる活動で、2009年より実施されています。
  詳しくは次のWebpageを参照ください。

  芸術士の大切なミッションは、保育をつくるとともに、子どもの姿を記録する「ドキュメント」を作成すること。
  よく伸びる紙粘土で遊んだある日の、次の一枚をご覧ください。



  ハサミがなかったから、鼻と口の間で「半分こ」した4歳児のYちゃん。
  仮に「何で?」「何のために?」何て聞かれようものなら、きっと本人だって絶句しちゃうにちがいないけれど、子どもを導くという使命感の中での、できるーできないのまなざしからは見えにくい何かを取り上げてもらい、ちっちゃな発見の背中を押してもらえる人生は、「豊かさ」そのものだろうなと実感します。

  保育の原点は遊び。遊びとは楽しいもの。
  楽しさの中で発見できた経験は、自ずと次の発見と探求につながっていく。
  そんな魅力に、改めて立ち返らせてくれる芸術士派遣事業の取り組みを、これからも応援していきたいと思います。

水曜日, 5月 29, 2013

1〜2歳児の自己主張は、他者とぶつかってこそ豊かになる(松本)

 月刊の保育雑誌「ちいさいなかま」(ちいさいなかま社)7月号(591号)に、上述のタイトルで小論を書きました。

 1,2歳児で目に付く「自己主張」。それは、これからを見通す力である「表象」とそれを保持する「記憶」が育まれたからこそ成立する力です。
 当然ですが、子ども自身のもつ見通しは、大人のもつそれと重なることも、重ならないこともある。そう考えると、自己主張の機会が存分に保障されているときには、必ず、大人の望む方向とは異なるそれが伴うはずでしょう。

 いっぽうで、子どもの自己主張を正面から受けとめるのは、なかなか苦しいのも事実です。
 では、どうすればよいか。
 強い自己主張を表に出すとき、子どもはどんな気持ちを抱いているかに思いを馳せることが、それを考える手がかりになるように思います。
 
 自分の世界と相手の世界の区別をつける土台ができるのは、おおむね2歳を過ぎた頃。
 その頃の子どもは、強く自己主張しつつも、もしかすると相手の思いを、頭の片隅に感じ始めているかもしれません。
 でも、子どもなりに相手の思いを感じつつ、気持ちの折り合いをつけて決断するには、時間がかかることもある。むしろ、相手の「正しさ」を感じればなおのこと。
 自分なりに考え、葛藤し、決断するために時間が必要なのは、子どもも、大人も、同じではないでしょうか。

 道すじを示し、導くだけではなく、前向きに葛藤できる時間と、そうしたくなる空間をつくること。
 「自己主張」を「支える」というパラドキシカルな問いは、保育や子育てにおいてよく眼にするいっぽうで、探りがいのある課題だと改めて感じました。

 拙稿が掲載されている雑誌『ちいさいなかま』7月号(360円と廉価!です)の特集は、“自己主張? わがまま?”
 興味がありましたらぜひ、他のみなさんの保育実践や投書とともに、ご覧いただけると嬉しいです!

水曜日, 5月 08, 2013

「2つの時間」のもつ意味:ベイトソン『精神の生態学』から(松本)

 以前の記事でも書きました、同僚の先生ほか研究者仲間と7月から月1回のペースで読んできた、ベイトソン『精神の生態学』の読書会が先月、完結しました。松本・松井・常田も参加していました。

 学べた点、今後の研究ほかのアイデアに活かせそうな点は多岐にわたるのですが、なかでも特に印象に残ったのは、生物の進化を考える際には、単線的なそれではなく、2つのレヴェルの時間を設定する必要がある、という点です。

 生物がその姿を変化させるとき、一般に考えられるありようは次の2つです。
 一つは、一生を通じて非可逆的、すなわち元に戻れないタイプの変化。これは、遺伝子レヴェルのものとみなすことができます。
 もう一つは、可逆的な、つまり環境に合わせて選択できる変化です。これは、体細胞レヴェルのものとみなすことができます。
 これら2つの変化を「効率」という面に照らし合わせれば、有利なのは前者、すなわち遺伝子レヴェルの変化です。「その場に合わせて調整する」プロセスを常に必要とする後者に対し、前者においては、想定できる状況や環境に合わせた構えがあらかじめプログラムされているわけですから。

  しかし一方で、遺伝子レヴェルの変化では対応できない状況があります。
  それは、「あらかじめ想定されていた状況や環境」が、何らかの理由で急激に、とても大きく変化した場合です。 
  そのような状況は、一つの有機体の過ごす時間(つまり、80年とか90年とか)の中では出会わないことが多いかもしれません。
 しかしながら「地球」という時間から考えてみると、歴史は私たちに、そのような「急激で大きい変化」に出会わざるを得ない瞬間が、一定の間隔で訪れることを教えてくれます。
 そのとき、ヒトはいかに振る舞えるか。想定できる環境に合わせることを最大限の効率で追求し、それを非可逆的なプログラムとして自らに書き込んでいたならば、「急激で大きい変化」はまさに「想定外」のものとなる。ヒトがもし、遺伝子レヴェルの変化しかもっていな生物であったならば、環境の激変についていけず、みな滅んでしまっていたかもしれません。

 ヒトという種が、なぜ生き残ってきたのか。
 わたしたちの先人は、今、目の前の環境にまったなしに適応して振る舞うことだけを追求してきたのではなく、最大限の効率はちょっぴり犠牲にしても、自らの構えをひとつに決めてしまうことなく、その場に合わせて自分なりに調整するプロセス、すなわち個々の個体が主体的に選択し、生きる余地を残してきたのでしょう。

 私たちが今生きているのは、おそらく、先人がそういった道を選んでくれたからこそ。
 歴史をふまえ生きていくとは、そのような道のりに思いを馳せることではないかと思うのです。

   短いそれと長いそれ、2つの時間を考えながら、ヒトは生き残ってきた。
   保育や教育の中で、そのことの持つ意味を改めて考えていきたいと思います。

水曜日, 4月 03, 2013

明後日の美術館、明後日の子ども(常田)

香川県立ミュージアム平成25年度特別展「たのしむ日本美術」関連事業『チルドレンズ・デー(仮)』の打合せに行ってきました。



今年秋に香川県立ミュージアムで開催される「たのしむ日本美術」は、”生活の中の美”をテーマに、桃山〜江戸時代の絵画や陶磁器、漆器、和ガラス、染織など、暮らしの中に息づいてきた名品を紹介する展覧会です。

この展覧会の会期中に実施される『チルドレンズ・デー』は、美術館を子どものために一日開放し、子どもの視点に立った展示物の紹介やプログラムを企画して、子どもたちにもっとアートに親しんでもらおうというものです。子どもの美術館デビューを応援する企画と言えるかも知れません。

今回私たちは、乳幼児期の子どもの特徴をふまえて、この時期の子どもたちが一番楽しめるプログラムになるよう、企画のお手伝いをさせていただくことになりました。名品といわれるものは、たとえそれに関する知識を持っていなくても、何かしら私たちに訴え語りかけてくるインパクトを持っています。それはきっと子どもたちにも伝わるはず。日本美術の名品に出会った子どもたちの中にどんな化学反応が起こるのか、とても楽しみです。




ところで、このうち合わせ中に「明後日の美術館」というキーワードが出てきました。今日ではなく明日を見据えて仕事をするというのは、よく聞く話ですが、これからの美術館は”明後日”を見ていかなければならない。つまり、一歩先だけでなく、そのずっと先にあるであろう私たちの社会という視点から美術、あるいは美術館という媒体を考えていくべきだという考え方なのだそうです。

よく考えてみれば、子ども自身が明後日のものだと言えるかも知れません。私たちの一歩先を軽々と超えて未来への可能性を拓いていく子どもたち。子どもとアート/美術の間には深い共通点がありそうです。

そして本来は、研究者も、明日ではなく、明後日を見て研究を進めていくべきなのかも知れません。「大学は百年先を見て動くもの」という言葉をどこかで聞いたことがあります。明日の成果も大切ですが、百年先の子どもたちにも幸せを届けられるような、そんな仕事をしていきたいです。

火曜日, 4月 02, 2013

3歳児のいいところミッケ!(松本)

 新年度が始まりましたね。
 新鮮な日々を味わう一方で、でもちょっぴりふわふわ、そわそわした日々を送られているみなさんも多いのではないかと想像します。
 新しい出会いは、楽しみでもあり、不安でもある。
 私たちは0歳の頃から、そのレヴェルは違えども、同じ問いを前にし続けているのかもしれません。

 さて、表題の件です。
 12/30の記事でお伝えしていた、3歳児の保護者向け冊子が完成しています。3月中旬にできていたのですが、お知らせが遅くなってしまいました。

 香川県内で3歳児の子育てまっただ中の保護者のみなさんには、保育所/幼稚園経由でお手元へ届くはずです。
 それ以外のみなさんは、香川県教育委員会のページ内にある以下のリンクから、全文を読むことができますので、よろしければ眼を通していただけると嬉しいです。

http://www.pref.kagawa.jp/kenkyoui/syogaigakusyu/characteristic/katei/site/3saiji/index.html

 プレゼントとしての言葉を、少しでもお届けできているか。
 委員や事務局のみなさんと力を合わせて、類書とは一味違うものに仕上げるべく力を尽くしたつもりですが、もし、この冊子が3歳児との豊かな時間をつくることに少しでも寄与できるならば、とても嬉しく思います。

 冊子の中身に触れつつ、いくつかの場所で話をさせていただく予定です。
 機会がありましたら、コメント、感想等をお寄せください!