水曜日, 5月 29, 2013

1〜2歳児の自己主張は、他者とぶつかってこそ豊かになる(松本)

 月刊の保育雑誌「ちいさいなかま」(ちいさいなかま社)7月号(591号)に、上述のタイトルで小論を書きました。

 1,2歳児で目に付く「自己主張」。それは、これからを見通す力である「表象」とそれを保持する「記憶」が育まれたからこそ成立する力です。
 当然ですが、子ども自身のもつ見通しは、大人のもつそれと重なることも、重ならないこともある。そう考えると、自己主張の機会が存分に保障されているときには、必ず、大人の望む方向とは異なるそれが伴うはずでしょう。

 いっぽうで、子どもの自己主張を正面から受けとめるのは、なかなか苦しいのも事実です。
 では、どうすればよいか。
 強い自己主張を表に出すとき、子どもはどんな気持ちを抱いているかに思いを馳せることが、それを考える手がかりになるように思います。
 
 自分の世界と相手の世界の区別をつける土台ができるのは、おおむね2歳を過ぎた頃。
 その頃の子どもは、強く自己主張しつつも、もしかすると相手の思いを、頭の片隅に感じ始めているかもしれません。
 でも、子どもなりに相手の思いを感じつつ、気持ちの折り合いをつけて決断するには、時間がかかることもある。むしろ、相手の「正しさ」を感じればなおのこと。
 自分なりに考え、葛藤し、決断するために時間が必要なのは、子どもも、大人も、同じではないでしょうか。

 道すじを示し、導くだけではなく、前向きに葛藤できる時間と、そうしたくなる空間をつくること。
 「自己主張」を「支える」というパラドキシカルな問いは、保育や子育てにおいてよく眼にするいっぽうで、探りがいのある課題だと改めて感じました。

 拙稿が掲載されている雑誌『ちいさいなかま』7月号(360円と廉価!です)の特集は、“自己主張? わがまま?”
 興味がありましたらぜひ、他のみなさんの保育実践や投書とともに、ご覧いただけると嬉しいです!

水曜日, 5月 08, 2013

「2つの時間」のもつ意味:ベイトソン『精神の生態学』から(松本)

 以前の記事でも書きました、同僚の先生ほか研究者仲間と7月から月1回のペースで読んできた、ベイトソン『精神の生態学』の読書会が先月、完結しました。松本・松井・常田も参加していました。

 学べた点、今後の研究ほかのアイデアに活かせそうな点は多岐にわたるのですが、なかでも特に印象に残ったのは、生物の進化を考える際には、単線的なそれではなく、2つのレヴェルの時間を設定する必要がある、という点です。

 生物がその姿を変化させるとき、一般に考えられるありようは次の2つです。
 一つは、一生を通じて非可逆的、すなわち元に戻れないタイプの変化。これは、遺伝子レヴェルのものとみなすことができます。
 もう一つは、可逆的な、つまり環境に合わせて選択できる変化です。これは、体細胞レヴェルのものとみなすことができます。
 これら2つの変化を「効率」という面に照らし合わせれば、有利なのは前者、すなわち遺伝子レヴェルの変化です。「その場に合わせて調整する」プロセスを常に必要とする後者に対し、前者においては、想定できる状況や環境に合わせた構えがあらかじめプログラムされているわけですから。

  しかし一方で、遺伝子レヴェルの変化では対応できない状況があります。
  それは、「あらかじめ想定されていた状況や環境」が、何らかの理由で急激に、とても大きく変化した場合です。 
  そのような状況は、一つの有機体の過ごす時間(つまり、80年とか90年とか)の中では出会わないことが多いかもしれません。
 しかしながら「地球」という時間から考えてみると、歴史は私たちに、そのような「急激で大きい変化」に出会わざるを得ない瞬間が、一定の間隔で訪れることを教えてくれます。
 そのとき、ヒトはいかに振る舞えるか。想定できる環境に合わせることを最大限の効率で追求し、それを非可逆的なプログラムとして自らに書き込んでいたならば、「急激で大きい変化」はまさに「想定外」のものとなる。ヒトがもし、遺伝子レヴェルの変化しかもっていな生物であったならば、環境の激変についていけず、みな滅んでしまっていたかもしれません。

 ヒトという種が、なぜ生き残ってきたのか。
 わたしたちの先人は、今、目の前の環境にまったなしに適応して振る舞うことだけを追求してきたのではなく、最大限の効率はちょっぴり犠牲にしても、自らの構えをひとつに決めてしまうことなく、その場に合わせて自分なりに調整するプロセス、すなわち個々の個体が主体的に選択し、生きる余地を残してきたのでしょう。

 私たちが今生きているのは、おそらく、先人がそういった道を選んでくれたからこそ。
 歴史をふまえ生きていくとは、そのような道のりに思いを馳せることではないかと思うのです。

   短いそれと長いそれ、2つの時間を考えながら、ヒトは生き残ってきた。
   保育や教育の中で、そのことの持つ意味を改めて考えていきたいと思います。