木曜日, 8月 19, 2021

7/13 ゼミ『子ども観をさかのぼる』(宮原)

 こんにちは。松本ゼミ3年の宮原です。

 今回は、第5章『子ども観をさかのぼる』(川田学(2021)『保育的発達論のはじまり』(ひとなる書房)p.90~p.100)を読みました。本章を担当してくださったのは、りささんです!

 本章では、子ども観が時代や文化によって様々であるということから発展して、ことばと実践の結びつきについて語られており、そこから、子ども観や子育て論の変遷へと話が展開されていました。本章の内容を踏まえて、いくつかの保育実践に触れながら意見交換を進めました。

 私が話し合いの中で特に残ったところは、りささんの『子どもの成長を支えるために環境を整えることは、同時に周囲が子どもの成長をコントロールする力を持っているということなのではないか』ということばと、『育ってほしい枝の成長を支えるために切った枝がとても輝く可能性があるかも知れない。』という部分です。。これらのことから、保育者は自分のこれまでの経験や知識などにとらわれずに色々な人の持つ多様な<観>を吸収しながら、目の前の子どもに向き合いその子の可能性を広げられるような保育をしていくことが大切だと感じました。

 りささんがみんなで考えたいこととして提案してくださったのは、『自分たちから見る子どもの姿と保育者から見る子どもの姿、同じ姿を見ているけれど捉え方が違うなと思った実践はありますか?』と、『現代、私たちはどうして子どもへ愛着や関心を抱くのか、子どもの何を大切にして子育てや保育をしていくべきなのか』の2点です。

 一つ目の疑問に対して、まず初めに、子どもの姿一つを取っても、その姿の背景を知っているかどうかによって捉え方は変わってくるという話が出ました。次に、実習での経験から、子どもの状況や気持ちを知るためには、やはり子どもの声を聞くことが大切なのではないか、という意見もありました。そして、給食を食べない児童がいたらどのように対応をするかという質問への、小学校コースの学生と、幼児教育コースの学生の間での回答の相違点から、自分のもつ価値観や置かれている状況も、子どもの姿の理解において重要な要素になってくるのではないかという話にもなりました。この話し合いを通して、自分がこれまで子どもにこう育って欲しいと思い考えていた指導案のねらいや、こうすることが子どもにとっていいことだと考えてしてきた関わり方は、子どもにとって本当によいものだったのかと改めて考えさせられるとともに、当たり前だと思ってきたことに疑問を持ちながら子どもと関わっていくことが大切なのだとわかりました。

 次に二つ目の疑問に対して、現代の競争社会では、将来を決めるのは自分自身の力次第であるため、保護者がいかに子どもの可能性を広げていけるかが重要だという意見が出た一方で、経済格差などがあり、現代の競争社会は平等な競争だとは言えないために評価軸が明確でなくなってしまっているのではないかという意見もありました。

 社会の変化に着目し、身分制度がなくなったことで、現代社会では保護者が自分の思いに正直に、子どもを育てていけるようになったのではないかという考えが出ました。そして、最後はりささんが、『社会』や『保育者として』ということ以前に、子どもには元気にすくすくと育って欲しいと願いながら日々関わっているのではないかという話で締めくくりました。

 本章を読んで、時代や文化というのは、保育や子育てに大きな影響を及ぼすものなのだと改めてわかりました。これから読んでいく第6章から第8章にかけて、発達と社会に関して述べられているので、第5章で学んだ内容をさらに深めていけると思うと楽しみです。

 ゼミの意見交換は、毎回自分になかった視点を与えてくれます。ゼミのメンバーの皆さんは自分にはない素晴らしい意見を持っていて、自分と比較して落ち込むことも多いですが、ゼミでの学びを通してしっかり成長していけるように頑張ります!





土曜日, 7月 17, 2021

7/6ゼミ『してもらう、する、してあげる、させてあげる』(槇)

 こんにちは。松本ゼミ3年の槇です。

 今回は、第四章『してもらう、する、してあげる、させてあげる』(川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房)p.74~88)を読みました!本章を担当してくれたのは3年のわかなです!

 本章は、〈ワタシ〉と〈アナタ〉が話者によって交替することを子どもが理解することの難しさと面白さから始まり、そこから子どもたちの自己意識が自己を離れ、だんだんと他者へと拡張していく育みへの着目を経て、本章の題名である「してもらう、する、してあげる、させてあげる」の考察が述べられています。その展開がとても興味深かったです。

 私は今回の「させてあげる」の部分を読んだときに無意識的に保護者・保育者から子どもへの働きかけを想像していたため、本書の事例が子どもから子どもへの働きかけであることをとても新鮮に感じました。この部分での話し合いにおいて、私はとくにりささんの、「パズルをすることは苦手だけれど、その動作を純粋に楽しんでいる子どもに対してほかの子どもがやってあげようとする」という事例が印象に残りました。子ども達は「全然進んでいないから手伝ってあげよう」と思っていますが、その子にはほかの子ども達のことが「自分がやりたいのに勝手にやろうとしてくる迷惑な人たち」として映っていることでしょう。これはきっと「する」「してあげる」の行動だと思います。ここから「させてあげる」という行動ができるようになるには他人の心を推し量り、「あえて」の行動(あえて手を貸さず、自分でできた!を支援する、など)ができるようになる新たな発達の展開が必要なのだと学びました。また、「させてあげる」という動作は保育環境、誰を主体として見るか、によって捉え方も変わってくるので一概にその行動を「させてあげる」の行動だと言い切るのは難しいという話もしました。また、「それをしたら褒められるから」という感情で動くことは能動的と言えるのか、という問いもとても印象に残りました。

 わかながみんなで考えたいこととして提案してくれたのは、機械が保育の現場に入ってくることは子どもの発達などにどのような影響を及ぼすのだろうか、能動と受容の一体的な経験を経て育まれていく主体性は機械だと育むことはできるのか、の2点です。

 まず一つ目の疑問に対して、機械と関わる中で子どもと機械との間にどのような状態が生じるか、ということについて話し合いました。表情や声のトーンが変わらないため、普段人との会話の中で何気なく働かせる「察する」という心の動きが必要なく、それと反対に、自分の気持ちが相手に伝わったか伝わっていないかを考えることがなくなる、など、人間ならではの「心の内」という部分に関する機械との比較がたくさん挙げられました。また、機械とのかかわりは「絶対的なものとして存在し続けるという安心感」があるが、同時に「この言い方をしたらこの人はどう思うだろう」というこちら側の感情の発生をなくし、「いつかいなくなってしまうかもしれない儚さ」もなく、それは虚しさを生むかもしれないという話も出ました。

 二つ目の疑問に対しては一つ目の疑問とも繋がって、人ならではの「意外性」がなくなることはすなわち、空気感を肌で感じる必要性がなくなるため、前回までの議論で出てきた「主体性の育みの中で必要な、他者とのかかわりの中での揺らぎ」がなくなるのではないか、という意見が出てきました。結論には達していませんが、子どもの主体性の発達に対する意外性のある人間のかかわりが生み出す揺らぎの大切さを改めて実感する話し合いとなりました。

 先生や先輩方と一つの議題について思い思いに意見交換をさせていただく時間は毎回大変緊張するものですが、その時間を経て、自分の中での学びが深まったり、新たな視点を吸収したりできるのがとても楽しく、本当に大切な時間だなと感じています。これからもゼミでのたくさんの学びを吸収しながら、成長していきたいと思っております。



火曜日, 7月 06, 2021

6/29 ゼミ『人間の赤ちゃんが“未熟”であることの意味』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙橋です。今回は、第2部,第3章「人間の赤ちゃんが“未熟”であることの意味」(川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房)p.54~73)を読みました。本章を担当してくれたのはまきろんです!


 本章では動物と人間の赤ちゃんを比較する中で人間の自由について述べられており、とても興味深かったです。動物は「探索的自由」(=自分で動きまわって生存に有利な行動をすることができること)を増大させていくのに対し、人間は「拡張身体的自由」(=自分の代わりに他者に実現してもらうことで欲求や好奇心を満たすこと)を最初に手に入れ、それを土台に「探索的自由」を手に入れて増大させていきます。赤ちゃんが泣いたり手足をバタバタさせたりしていると、周りの人は「どうしたの?お腹がすいたの?」などと赤ちゃんの欲求を探りながらミルクをあげたりおむつを替えたりするでしょう。このことを本章では「まわりの人が赤ちゃんのかわりに動いてあげている」と表しています。赤ちゃんに対する大人の応答的関わりは赤ちゃんと外の世界をつなげる懸け橋となるのだと感じました。

 私は、大人にとって正解ではないことを子どもが発した時に「なぜそう思うのか」を問うことで子どものものの見方が分かって子どもの視野の広がりにつながる、というまきろんの考えが印象的でした。「なぜそう思ったのか」と子どもの意図を探り、もしかしたらそれは間違いではないのかもしれない、そのような考え方もできるね、などと捉えることで、大人にとっての間違いがくつがえされ、子どもの見方を受け入れることができるのではないかと思いました。それによって子どもは自分の考えをさらに出せるようになり、物事に対して多方面から思いを馳せ、考え、視野を広げていくのでしょう。大人が子どもの思考の過程に注目し、「どのように考えたのだろう」と思考の過程に興味をもつことが大切だと思います。


 まきろんがみんなで考えたいこととして提案してくれたのは、赤ちゃんの主体性とは何か、人間にとって「自由」とは何か、の2つです。

 まず、1つ目の疑問に対して、赤ちゃんの主体性を保障するための条件を話し合いました。子どもが発したことを受け止めたり反応したりすることは大切、赤ちゃんの泣きに反応することで赤ちゃんが自己主張できるようになるのでは?、楽しい雰囲気は赤ちゃんにも伝わるから応答的関わりって大切だな、などの意見が出てきました。これらの意見と本章の内容を通して、赤ちゃんにとっての安全基地のような存在(親や保育者など)が必要だと思いました。自分で動き回って探索する際、不安になったり嫌な思いをしたりすることもあるでしょう。そんな時に「怖かったねー。もう大丈夫だよ。」と守ってくれ、避難できる場所があれば、安心して次の探索へと旅立つことができると思います。子どもの探索活動の土台には、愛着形成・信頼関係の築きによる大人の存在があるのだと感じました。

 2つ目の疑問に対して、まきろんは「揺れ動きの中で受け止められたり突き放されたりしながら他者と関わっていくことが保障されていること」が「自由」なのだと考えていました。このことから、他者がいることで人は自由を得ているのだとわかりました。自分にも他者にも自由があるため、自由を実現するためには他者の承認が必要です。他者がいても承認されなければ自由を実現できない場合も考えられますが、他者を介在してこそ自由を得られるのだと感じました。また、自分の自由も他者の自由も尊重するために、互いの自由を互いに承認すること(≒折り合いをつけること)が大切だと思い、子どもにも遊びや生活の中で伝えていくべきことだなと感じました。


 他者がいるから挑戦したり自由を手に入れたりすることができるのだとわかり、他者の存在の大切さやありがたさを感じた時間でした。






火曜日, 6月 29, 2021

6/22 ゼミ『保育の中でとらえる主体性』(山﨑)

 こんにちは。松本ゼミ4年の山﨑です。

 今回は、第二章『保育の中でとらえる主体性』です。担当してくれたのは未咲ちゃんです。これまでの章で、「主体性」とは「その子どもが周囲とのあいだに結んでいる関係の状態」であることについて考えてきました。そこから、2章では「集団」と「主体性」はお互いに絡まり合いながら発展・発達するより糸のような関係であるという話が出てきました。子どもと友だち、モノ、集団との関係は固定されているものではなく、毎日常に変化していくものです。昨日同じ遊びをして一緒にいたからといって明日もそうとは限らないし、今日はどうしても食べたくなかった嫌いな食べ物が明日になって急に食べられるようになることだってあります。子どもから出るより糸は常にその絡まり方を変えながら、複雑に絡まり合っているのだと感じました。

 私は、未咲ちゃんがレジュメに書いてくれた、保育者の子どもへの働きかけの図がとても印象に残っています。保育者が一人の子に働きかけると、何かしらの形でその子が変化します。そうするとその子に関わる別の子にも変化が生じ、保育者が直接働きかけていない子にも間接的に働きかけていることになるのでは?ということを表した図でした。私はその図を見て、実習先で先生がおっしゃっていた「ひとりに向き合うことはクラスに向き合うことになる」という言葉を思い出しました。集団をとるのか、個をとるのかというのはよく聞く話です。私自身も実習中に一人に注目すると周りが見えなくなり、全体を見ようとすると一人ひとりが見えなくなって…という経験をたくさんしてきましたが、その背景には実は時間に追われていたり、この流れでやらなきゃ!という意識があったからかもしれないとみんなと話す中で気付きました。

 未咲ちゃんがみんなで話し合いたいこととして出してくれたのは、「子どもの主体性を大切にする」とはどういうことか、保育者はどうすればいいのかという疑問です。とても深くて大きな問いなので、これが答えだ!というものは出すことは難しいですが、みんなで悩みながら条件を考えてみました。子どもの考える時間を保証することって大事だよね~、子どもと大人との間のやりとりである「揺れ動き」は大切にしたい!子どもが自分とは違う考えを持つ他人のことを受け入れていけるように、保育者が「みんな違ってみんないいんだよ」ということを伝え続けていくことが大事なんじゃないかな、いろいろな意見が出てきました。その中で、未咲ちゃんが「保育者が完璧でいようとしないこと」と言ってくれました。これは名言だ!と思いました。例えば、保育者がピーマンが苦手だったとします。子どもたちが先生にも苦手なものがあるんだと知ることは、世の中にはいろいろな人がいるんだなと、違いを認めていける雰囲気づくりにつながるかもしれません。先生ががんばってピーマンを食べようと挑戦している姿を見て、ぼくもがんばってみようかなと思う子もいるかもしれません。主体性には他者の存在は不可欠です。保育者が子どもにとって一緒に考えたり、悩んだり、迷ったりする存在になることが、子どもの考える時間を保証することにつながり、「揺れ動き」を大切にすることになるのではないかと思いました。

 新しく3年生の2人がゼミに入ってきてくれて、また改めてゼミのみんなで考えたり話し合えたりできることの大切さを感じています。ゼミでの話はいつも私にこれまでなかった考え方をくれます。これからもゼミを通してたくさんのことを吸収して成長していきたいです!



月曜日, 6月 21, 2021

6/15 ゼミ『子どもはどう「自己決定」しているか』(高木)

 こんにちは!松本ゼミ4年の高木です。今回は、第1部、第1章「子どもはどう『自己決定』しているか」(川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房)p26-39)を読み、前回に引き続き子どもの主体性についてみんなで考えていきました。


 今回、この章を担当したのは花。子どもの自己決定の過程を考える中で主体的とはどのような状態を指すのか、今までの自分の抱いていたイメージと比較しながら、この文献から得た新しい発見をみんなに共有してくれました。

 私たちが「自己決定」する時、その決定には他者が介在していることが多いと思います。例えば、可愛い服を買った時、自分一人で決めた気がするけれど「あの子が着ていて可愛かったな」「店員さんに似合うって褒められたな」と自然に自分以外の誰かが関係していることもあります。そして、それは子どもも同じであり、「○○ちゃんがしていたから」のように、自己の基準がある程度作られている大人に比べて、より周囲の人や環境に影響されやすいのではないでしょうか。ですが「主体的な自己決定」と聞くと、人に影響されず、自分の意志や判断による決定であるように聞こえてしまう自分がいることに気が付きました。

 この章では、主体性は他者や環境との関わりにおいてのみ現れると述べられています。主体性があるとされる状態は、自分のしたい事を好きなように、自分だけの力でしている姿ではないということです。普段は進んでご飯を食べない子どもが、今日は自分から食事に向かって行けた時、その子の「今日はご飯を食べようかな…」という思い(自己決定)の裏には「今日は朝お母さんに褒められたから」「みんな美味しそうに食べているから」等周りの様々な環境がきっかけとなっているかもしれません。“子どもの主体性”という言葉は、よく使われ、実際私もよく考えないまま使ってしまう場面もありますが、その『子どもが周囲とのあいだに結んでいる関係』に目を向ける必要性を学びました。

 本章を読み考えていく中で、主体性には見えやすいものと見えにくいものがあるのかもしれないという花の考えがとても印象的でした。前回のゼミで話し合った「主体的であるための条件」の「主体的」という言葉は子ども自身が意欲的であることがこちらに伝わることが前提だったように思います。「したい!」気持ちが見えていること、自分で決めて挑戦することはもちろん主体的な姿と捉えることができますが、子どもを見る大人側が見つけやすかっただけなのかもしれないなと感じました。主体性を周囲との間にある関係と捉えたとき、見えやすくても見えにくくても「子どもには何らかの主体性がある」という考えが私にとって新しい発見でした。


 そして主体性が見えにくい時にも保育者はそれらを感じ取り、支えていく必要があるのかもしれません。子どもが新しい関係を探して、試行錯誤しているときに必要な保育者の援助とは?という花の疑問を最後にみんなで考えました。それぞれが自分の体験などをもとに話し合う中で、大きく分けて2つの大切にしたい援助を見つけました。

 1つ目は、自分で決めた!という感覚を持つことができるような援助です。どんなに周りに影響されたとしても、結局自分で決めて「食べた」ということを一緒に喜び、その嬉しさを膨らましていく関わりが、次の決定の自信に繋がり、繰り返されていくのかなと思います。

 2つ目は、子どもが揺れ動く選択肢や時間などの環境があることです。「こっちにしようかな、あっちにしようかな、やっぱやめようかな」という子どもの揺れ動く姿の裏には、その場に悩む選択肢や時間が存在することが分かります。そして、転園したばかりで不安だった未咲をずっと後ろから見て、頷いていてくれた当時の先生のように、悩んで揺らいでも大丈夫であるという安心感や、自分で選んだものを素敵だねと言ってくれる後押しも必要だなと感じました。もちろん保育者にも「こうなってほしい」という思いはあって、子どもの決定を後押しできないことも、時間がかかってしまうこともあると思います。でもそのような時に、保育者側が「それはダメ!」「こうしなければ…」という思いを固めて選択肢を狭めずに、大人も子どももその関係の中で一緒に揺れ動いていくことが、子どもの自己決定を支えることに繋がるのかもしれないと感じました。


 これから読んでいく内容も「主体性」がキーワードとなっていくので、今週より来週、来週より再来週、みんなの考えがどんどん深まっていくのがとても楽しみです!






月曜日, 6月 14, 2021

6/8 ゼミ『「個人」を尊重しつつ、「個人」を越える営みへ』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙橋です。

 昨年度に引き続き、文献発表が始まりました。今年度は、川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房) をみんなで輪読していきます!今回は、序論「『個人』を尊重しつつ、『個人』をこえるいとなみへ」です。


 今回の担当はりっちゃん。保育における「量」の拡大の裏には子どもや保護者、保育者の「~したい」「子どもにこう育ってほしい」要求が隠されており、それぞれの人間らしさを保障されるべきである。今まで当たり前だったことは本当に絶対なのだろうか、と文献を通して考えていました。りっちゃんの考えを聞き、みんなで考えたことや印象的だったことをもとに話し合いました。


 りっちゃんは実習で、滑り台の上など午前中に遊んでいた好きな場所でお弁当を食べる子どもの姿を見て驚いたそうです。そこには「子どもが楽しかったという思いをもって食べてほしい」という保育者の思いが込められていることを知り、「ご飯はちゃんと椅子に座って行儀よく食べる」という当たり前に疑問を抱いたことを話してくれました。最初は床で食べていたけど、踏まれて嫌だった経験があるから机で食べるようになったという保育者の話から、経験したからこそ「なぜ机で食べなければならないのか」を落とし込めるのだろうという意見もありました。当たり前にも当たり前になった理由があるはずです。当たり前だからそれを絶対守らなければならないということはないでしょう。それを大人が理解したうえで、当たり前を問い直したり、覆したり、子どもに伝えたりすることが大切なのだと思います。少し話がずれるかもしれませんが、当たり前は当たり前じゃないかもしれないという意識をもつことで、自分にとっての当たり前は他者にとっては当たり前じゃないかもしれないと、違いの認め合いにもつながるのかもしれないと思いました。


 りっちゃんの問いかけである「主体的って具体的にどんな姿?」をもとに、“主体的であるための条件”についても議論しました。自分から「したい!」思い(意欲)がある、興味関心がある、自分の経験を振り返る機会がある(他者を通して振り返ることで他者を許容でき他者の主体性を支えることができる)、自分を認めてくれる・安心できる環境である、「したい!」ことを面白がってくれる人がいる、という意見が出てきました。これらの意見から、1人じゃ主体的になれないという展開になったのが印象的でした。自分を認めたり理解したりしてくれる他者がいるからこそ「したい!」を実現できる(主体的になれる)のでしょう。私はこの話から、信頼関係と主体性がつながっているように感じました。初対面の人やあまり話したことがない人に対して自分から話しかけるのをためらってしまいますが、「この人なら私の意見を受け止めてくれる」と思える人には、自身の意思や悩みなどを自分から打ち明けることができると思います。そのように考えると、保育所保育指針にある「保育士等との信頼関係を基盤に、一人一人の子どもが主体的に活動し」という部分には、「信頼できる他者がいるからこそ子どもが主体的になれる」という意味が隠されているのかもしれないと思いました。


 これから読んでいく第1章から第4章においても、子どもの主体性が議論の軸となっていきそうです。これまで様々な授業で主体性という言葉を聞き、考えてきましたが、主体性の具体的な姿をイメージしたり意味を説明したりすることは難しいです。今後授業や保育現場でもきっと多く耳にしたり使用したりすると思います。主体性とは何か。みんなと一緒に考え、深めていきたいです。