月曜日, 6月 21, 2021

6/15 ゼミ『子どもはどう「自己決定」しているか』(高木)

 こんにちは!松本ゼミ4年の高木です。今回は、第1部、第1章「子どもはどう『自己決定』しているか」(川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房)p26-39)を読み、前回に引き続き子どもの主体性についてみんなで考えていきました。


 今回、この章を担当したのは花。子どもの自己決定の過程を考える中で主体的とはどのような状態を指すのか、今までの自分の抱いていたイメージと比較しながら、この文献から得た新しい発見をみんなに共有してくれました。

 私たちが「自己決定」する時、その決定には他者が介在していることが多いと思います。例えば、可愛い服を買った時、自分一人で決めた気がするけれど「あの子が着ていて可愛かったな」「店員さんに似合うって褒められたな」と自然に自分以外の誰かが関係していることもあります。そして、それは子どもも同じであり、「○○ちゃんがしていたから」のように、自己の基準がある程度作られている大人に比べて、より周囲の人や環境に影響されやすいのではないでしょうか。ですが「主体的な自己決定」と聞くと、人に影響されず、自分の意志や判断による決定であるように聞こえてしまう自分がいることに気が付きました。

 この章では、主体性は他者や環境との関わりにおいてのみ現れると述べられています。主体性があるとされる状態は、自分のしたい事を好きなように、自分だけの力でしている姿ではないということです。普段は進んでご飯を食べない子どもが、今日は自分から食事に向かって行けた時、その子の「今日はご飯を食べようかな…」という思い(自己決定)の裏には「今日は朝お母さんに褒められたから」「みんな美味しそうに食べているから」等周りの様々な環境がきっかけとなっているかもしれません。“子どもの主体性”という言葉は、よく使われ、実際私もよく考えないまま使ってしまう場面もありますが、その『子どもが周囲とのあいだに結んでいる関係』に目を向ける必要性を学びました。

 本章を読み考えていく中で、主体性には見えやすいものと見えにくいものがあるのかもしれないという花の考えがとても印象的でした。前回のゼミで話し合った「主体的であるための条件」の「主体的」という言葉は子ども自身が意欲的であることがこちらに伝わることが前提だったように思います。「したい!」気持ちが見えていること、自分で決めて挑戦することはもちろん主体的な姿と捉えることができますが、子どもを見る大人側が見つけやすかっただけなのかもしれないなと感じました。主体性を周囲との間にある関係と捉えたとき、見えやすくても見えにくくても「子どもには何らかの主体性がある」という考えが私にとって新しい発見でした。


 そして主体性が見えにくい時にも保育者はそれらを感じ取り、支えていく必要があるのかもしれません。子どもが新しい関係を探して、試行錯誤しているときに必要な保育者の援助とは?という花の疑問を最後にみんなで考えました。それぞれが自分の体験などをもとに話し合う中で、大きく分けて2つの大切にしたい援助を見つけました。

 1つ目は、自分で決めた!という感覚を持つことができるような援助です。どんなに周りに影響されたとしても、結局自分で決めて「食べた」ということを一緒に喜び、その嬉しさを膨らましていく関わりが、次の決定の自信に繋がり、繰り返されていくのかなと思います。

 2つ目は、子どもが揺れ動く選択肢や時間などの環境があることです。「こっちにしようかな、あっちにしようかな、やっぱやめようかな」という子どもの揺れ動く姿の裏には、その場に悩む選択肢や時間が存在することが分かります。そして、転園したばかりで不安だった未咲をずっと後ろから見て、頷いていてくれた当時の先生のように、悩んで揺らいでも大丈夫であるという安心感や、自分で選んだものを素敵だねと言ってくれる後押しも必要だなと感じました。もちろん保育者にも「こうなってほしい」という思いはあって、子どもの決定を後押しできないことも、時間がかかってしまうこともあると思います。でもそのような時に、保育者側が「それはダメ!」「こうしなければ…」という思いを固めて選択肢を狭めずに、大人も子どももその関係の中で一緒に揺れ動いていくことが、子どもの自己決定を支えることに繋がるのかもしれないと感じました。


 これから読んでいく内容も「主体性」がキーワードとなっていくので、今週より来週、来週より再来週、みんなの考えがどんどん深まっていくのがとても楽しみです!






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