火曜日, 6月 29, 2021

6/22 ゼミ『保育の中でとらえる主体性』(山﨑)

 こんにちは。松本ゼミ4年の山﨑です。

 今回は、第二章『保育の中でとらえる主体性』です。担当してくれたのは未咲ちゃんです。これまでの章で、「主体性」とは「その子どもが周囲とのあいだに結んでいる関係の状態」であることについて考えてきました。そこから、2章では「集団」と「主体性」はお互いに絡まり合いながら発展・発達するより糸のような関係であるという話が出てきました。子どもと友だち、モノ、集団との関係は固定されているものではなく、毎日常に変化していくものです。昨日同じ遊びをして一緒にいたからといって明日もそうとは限らないし、今日はどうしても食べたくなかった嫌いな食べ物が明日になって急に食べられるようになることだってあります。子どもから出るより糸は常にその絡まり方を変えながら、複雑に絡まり合っているのだと感じました。

 私は、未咲ちゃんがレジュメに書いてくれた、保育者の子どもへの働きかけの図がとても印象に残っています。保育者が一人の子に働きかけると、何かしらの形でその子が変化します。そうするとその子に関わる別の子にも変化が生じ、保育者が直接働きかけていない子にも間接的に働きかけていることになるのでは?ということを表した図でした。私はその図を見て、実習先で先生がおっしゃっていた「ひとりに向き合うことはクラスに向き合うことになる」という言葉を思い出しました。集団をとるのか、個をとるのかというのはよく聞く話です。私自身も実習中に一人に注目すると周りが見えなくなり、全体を見ようとすると一人ひとりが見えなくなって…という経験をたくさんしてきましたが、その背景には実は時間に追われていたり、この流れでやらなきゃ!という意識があったからかもしれないとみんなと話す中で気付きました。

 未咲ちゃんがみんなで話し合いたいこととして出してくれたのは、「子どもの主体性を大切にする」とはどういうことか、保育者はどうすればいいのかという疑問です。とても深くて大きな問いなので、これが答えだ!というものは出すことは難しいですが、みんなで悩みながら条件を考えてみました。子どもの考える時間を保証することって大事だよね~、子どもと大人との間のやりとりである「揺れ動き」は大切にしたい!子どもが自分とは違う考えを持つ他人のことを受け入れていけるように、保育者が「みんな違ってみんないいんだよ」ということを伝え続けていくことが大事なんじゃないかな、いろいろな意見が出てきました。その中で、未咲ちゃんが「保育者が完璧でいようとしないこと」と言ってくれました。これは名言だ!と思いました。例えば、保育者がピーマンが苦手だったとします。子どもたちが先生にも苦手なものがあるんだと知ることは、世の中にはいろいろな人がいるんだなと、違いを認めていける雰囲気づくりにつながるかもしれません。先生ががんばってピーマンを食べようと挑戦している姿を見て、ぼくもがんばってみようかなと思う子もいるかもしれません。主体性には他者の存在は不可欠です。保育者が子どもにとって一緒に考えたり、悩んだり、迷ったりする存在になることが、子どもの考える時間を保証することにつながり、「揺れ動き」を大切にすることになるのではないかと思いました。

 新しく3年生の2人がゼミに入ってきてくれて、また改めてゼミのみんなで考えたり話し合えたりできることの大切さを感じています。ゼミでの話はいつも私にこれまでなかった考え方をくれます。これからもゼミを通してたくさんのことを吸収して成長していきたいです!



月曜日, 6月 21, 2021

6/15 ゼミ『子どもはどう「自己決定」しているか』(高木)

 こんにちは!松本ゼミ4年の高木です。今回は、第1部、第1章「子どもはどう『自己決定』しているか」(川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房)p26-39)を読み、前回に引き続き子どもの主体性についてみんなで考えていきました。


 今回、この章を担当したのは花。子どもの自己決定の過程を考える中で主体的とはどのような状態を指すのか、今までの自分の抱いていたイメージと比較しながら、この文献から得た新しい発見をみんなに共有してくれました。

 私たちが「自己決定」する時、その決定には他者が介在していることが多いと思います。例えば、可愛い服を買った時、自分一人で決めた気がするけれど「あの子が着ていて可愛かったな」「店員さんに似合うって褒められたな」と自然に自分以外の誰かが関係していることもあります。そして、それは子どもも同じであり、「○○ちゃんがしていたから」のように、自己の基準がある程度作られている大人に比べて、より周囲の人や環境に影響されやすいのではないでしょうか。ですが「主体的な自己決定」と聞くと、人に影響されず、自分の意志や判断による決定であるように聞こえてしまう自分がいることに気が付きました。

 この章では、主体性は他者や環境との関わりにおいてのみ現れると述べられています。主体性があるとされる状態は、自分のしたい事を好きなように、自分だけの力でしている姿ではないということです。普段は進んでご飯を食べない子どもが、今日は自分から食事に向かって行けた時、その子の「今日はご飯を食べようかな…」という思い(自己決定)の裏には「今日は朝お母さんに褒められたから」「みんな美味しそうに食べているから」等周りの様々な環境がきっかけとなっているかもしれません。“子どもの主体性”という言葉は、よく使われ、実際私もよく考えないまま使ってしまう場面もありますが、その『子どもが周囲とのあいだに結んでいる関係』に目を向ける必要性を学びました。

 本章を読み考えていく中で、主体性には見えやすいものと見えにくいものがあるのかもしれないという花の考えがとても印象的でした。前回のゼミで話し合った「主体的であるための条件」の「主体的」という言葉は子ども自身が意欲的であることがこちらに伝わることが前提だったように思います。「したい!」気持ちが見えていること、自分で決めて挑戦することはもちろん主体的な姿と捉えることができますが、子どもを見る大人側が見つけやすかっただけなのかもしれないなと感じました。主体性を周囲との間にある関係と捉えたとき、見えやすくても見えにくくても「子どもには何らかの主体性がある」という考えが私にとって新しい発見でした。


 そして主体性が見えにくい時にも保育者はそれらを感じ取り、支えていく必要があるのかもしれません。子どもが新しい関係を探して、試行錯誤しているときに必要な保育者の援助とは?という花の疑問を最後にみんなで考えました。それぞれが自分の体験などをもとに話し合う中で、大きく分けて2つの大切にしたい援助を見つけました。

 1つ目は、自分で決めた!という感覚を持つことができるような援助です。どんなに周りに影響されたとしても、結局自分で決めて「食べた」ということを一緒に喜び、その嬉しさを膨らましていく関わりが、次の決定の自信に繋がり、繰り返されていくのかなと思います。

 2つ目は、子どもが揺れ動く選択肢や時間などの環境があることです。「こっちにしようかな、あっちにしようかな、やっぱやめようかな」という子どもの揺れ動く姿の裏には、その場に悩む選択肢や時間が存在することが分かります。そして、転園したばかりで不安だった未咲をずっと後ろから見て、頷いていてくれた当時の先生のように、悩んで揺らいでも大丈夫であるという安心感や、自分で選んだものを素敵だねと言ってくれる後押しも必要だなと感じました。もちろん保育者にも「こうなってほしい」という思いはあって、子どもの決定を後押しできないことも、時間がかかってしまうこともあると思います。でもそのような時に、保育者側が「それはダメ!」「こうしなければ…」という思いを固めて選択肢を狭めずに、大人も子どももその関係の中で一緒に揺れ動いていくことが、子どもの自己決定を支えることに繋がるのかもしれないと感じました。


 これから読んでいく内容も「主体性」がキーワードとなっていくので、今週より来週、来週より再来週、みんなの考えがどんどん深まっていくのがとても楽しみです!






月曜日, 6月 14, 2021

6/8 ゼミ『「個人」を尊重しつつ、「個人」を越える営みへ』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙橋です。

 昨年度に引き続き、文献発表が始まりました。今年度は、川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房) をみんなで輪読していきます!今回は、序論「『個人』を尊重しつつ、『個人』をこえるいとなみへ」です。


 今回の担当はりっちゃん。保育における「量」の拡大の裏には子どもや保護者、保育者の「~したい」「子どもにこう育ってほしい」要求が隠されており、それぞれの人間らしさを保障されるべきである。今まで当たり前だったことは本当に絶対なのだろうか、と文献を通して考えていました。りっちゃんの考えを聞き、みんなで考えたことや印象的だったことをもとに話し合いました。


 りっちゃんは実習で、滑り台の上など午前中に遊んでいた好きな場所でお弁当を食べる子どもの姿を見て驚いたそうです。そこには「子どもが楽しかったという思いをもって食べてほしい」という保育者の思いが込められていることを知り、「ご飯はちゃんと椅子に座って行儀よく食べる」という当たり前に疑問を抱いたことを話してくれました。最初は床で食べていたけど、踏まれて嫌だった経験があるから机で食べるようになったという保育者の話から、経験したからこそ「なぜ机で食べなければならないのか」を落とし込めるのだろうという意見もありました。当たり前にも当たり前になった理由があるはずです。当たり前だからそれを絶対守らなければならないということはないでしょう。それを大人が理解したうえで、当たり前を問い直したり、覆したり、子どもに伝えたりすることが大切なのだと思います。少し話がずれるかもしれませんが、当たり前は当たり前じゃないかもしれないという意識をもつことで、自分にとっての当たり前は他者にとっては当たり前じゃないかもしれないと、違いの認め合いにもつながるのかもしれないと思いました。


 りっちゃんの問いかけである「主体的って具体的にどんな姿?」をもとに、“主体的であるための条件”についても議論しました。自分から「したい!」思い(意欲)がある、興味関心がある、自分の経験を振り返る機会がある(他者を通して振り返ることで他者を許容でき他者の主体性を支えることができる)、自分を認めてくれる・安心できる環境である、「したい!」ことを面白がってくれる人がいる、という意見が出てきました。これらの意見から、1人じゃ主体的になれないという展開になったのが印象的でした。自分を認めたり理解したりしてくれる他者がいるからこそ「したい!」を実現できる(主体的になれる)のでしょう。私はこの話から、信頼関係と主体性がつながっているように感じました。初対面の人やあまり話したことがない人に対して自分から話しかけるのをためらってしまいますが、「この人なら私の意見を受け止めてくれる」と思える人には、自身の意思や悩みなどを自分から打ち明けることができると思います。そのように考えると、保育所保育指針にある「保育士等との信頼関係を基盤に、一人一人の子どもが主体的に活動し」という部分には、「信頼できる他者がいるからこそ子どもが主体的になれる」という意味が隠されているのかもしれないと思いました。


 これから読んでいく第1章から第4章においても、子どもの主体性が議論の軸となっていきそうです。これまで様々な授業で主体性という言葉を聞き、考えてきましたが、主体性の具体的な姿をイメージしたり意味を説明したりすることは難しいです。今後授業や保育現場でもきっと多く耳にしたり使用したりすると思います。主体性とは何か。みんなと一緒に考え、深めていきたいです。