15.7.18

夏祭り(松本)

渡英して3ヶ月半が過ぎました。
日本でも、夏真っ盛りの気温と湿度だと思いますが、こちらでも気づけば夏本番に。
大学では、学生は夏休みに入ったようです。イタリアほか、少し早く始まっている欧州各国の夏休みシーズンとも重なるからか、このところ街は平日週末問わず、人々で溢れています。
そして、小学校や中学校は学年の大詰めで、夏休みまであとひといき。こちらの新学期は9月からのため、7月は年度末ということになります。Drama Play(演劇)の発表会やスポーツ大会、ミニ遠足や宿泊活動等、一日おきといっても過言ではないほど、行事が目白押しです。
(ただし、全ての行事が全員参加ではなく、任意参加のものもあります。その子たちのためには、きちんと別の日課が準備されているようです。)

このあいだの金曜日は、小学校のSummer Fairに。
午後の時間、3年生から5年生は、クラス毎のダンスを、間に先生のダンスが入り、最後は6年生全員での合唱。その後は校庭で、それぞれのブースでのレクや飲食を楽しみます。
最後はくじ引き大会。ありがたいことに、プールのチケットに恵まれました!

年度末の盛りだくさんの日々の中、どうやってダンスを準備したのだろう?というところが気になりましたが、聞けば準備の時間は1週間ほど。
完成度はもちろんそれなり。でも、観客である保護者たちも、先生方も、何より子どもたち当人が、自分たちが踊ったり、歌っているときはもちろん、自分の出番以外でもとても楽しそうな様子が強く印象に残りました。
先生方のダンスの際は、観客席で見ている子どもたちの7-8割が、気づけば踊り出してしまうほど。

日本の場合、卒業式といえば、小学校に限らず、幼稚園や保育所においても、練習にかなりの時間を費やすところが大半ではないかと思います。
授業時間の確保が叫ばれる昨今、卒業式に限らず、運動会や発表会など行事の練習や準備の時間をどう捻出するかは、多くの教育現場で悩ましいところかもしれません。

その貴重な1回1回の練習時間は、どこにつながり、何を生み出しているでしょうか?
「ほら、お客さんに笑顔、忘れないで!」と声をかけずとも、子どもたちがしぜんと笑顔で活動したくなるために、必要なものはなにか。
今、その指示を子どもたちに繰り返すことが、何を可能にし、何を制約するか。
私も含め、日本の保育や教育に関わる大人が、改めて振り返る価値のある課題ではないかと感じました。

学校に関わる比較教育の研究では、どちらかといえば、学力テストや、正課カリキュラムから見えてくる内容等、データとして可視化しやすい部分から論じられることが多いかなと思います。
それらの大切さは、多くの研究者が指摘するとおりでしょう。
いっぽうで、意外とこのような、課外も含めた日々の働きかけの繰り返しこそが、具体的な子どもの自己形成として折り重ねられ、インパクトをもつのではないか。
そんな視点を織り込みつつ、こちらでの新しい調査の準備を進めているところです。







10.7.18

ゼミ その2: 2nd Jul 2018(しおみん)

こんにちは。松本ゼミ4年のしおみです。いよいよ3年生が文献発表をしてくれるのも最後となりました。今回みんなで読んだのは、リリアン・G・カッツ『レッジョ・エミリアから何を学ぶか』[C.エドワーズ/L.ガンディーニ/G.フォアマン=編『子どもたちの100の言葉—レッジョ・エミリアの幼児教育』2001,世織書房, p37-65]です。
文献の中で、レッジョ・エミリアとアメリカの幼児教育では、モデルが違うとのことでした。レッジョのような大家族・地域モデルでは強く安定した人間関係の中で、時間的なプレッシャーがなく、自由に作業し、遊ぶことができます。それとは逆に、アメリカのような企業・産業モデルは教育が一方向的な過程ですすめられる中で、時間に縛られた一回限りの活動がされています。

今回、発表担当をしてくれたみほちゃんは、レッジョのような大家族・地域モデルでは、子どもの個性や得意を伸ばしやすく、苦手に目が向けられないのではないか、子どもの成長のためにはレッジョのやり方が必ずしも良いわけではないのではという議論を持ってきてくれました。それを聞いたときに、た、確かに…と思いました。

レッジョでは、子どもたちが知りたいと思うトピックについてグループで掘り下げて研究するプロジェクト活動が行われています。その活動の中で、子どもたちは絵を用いて記録しています。このような活動の中で、困難なことは沢山あるかもしれないけれど、子どもたちは苦手をあまり感じていないのではないかと考えました。それは、一緒にやる仲間がいること、自分たちが知りたいと思っているトピックだからこそだと思います。そして、このプロジェクト活動には教師自身も答えはないし、その活動の中で子どもが何を感じたか学んだかを教師が読み取っているからなのかなとも考えました。

そうなると、日本の保育では周りの子どもと比較されて苦手が分かりやすいということは確かだなと思います。そして、わたし自身も苦手なことや、周りに比べてできないことばかりだなぁと議論をしながら考えていました。大人でも周りの人と比べて、できないことや苦手なことを指摘されるのは辛いことで、できないことをできるようにする、苦手なことを得意にするというそんな単純なことではない気がします。じぶん自身も乗り越えていない苦手は沢山あります。でも、保育者だって、完璧な人はいないよなぁと勝手に自分で言い聞かせています。乗り越えていないことがあるからこそ、子どもが困難を乗り越えるときには一緒に悩んだり、ワクワクしたりすることができるのかもしれないと思いました。そして、ときには困難を与えることも保育者の仕事なのかなとも感じました。

いつもそうですが、なんだか、保育のことだけではなく、大学4年間のこと、それまでのこと、そしてこれからのじぶん自身のことも考えさせられる、そんな時間でした。

写真は今年の幼研合宿の様子です。ついでに、改めて撮ったゼミの集合写真も…。
今までとは違う新しいことに挑戦し、困難が沢山ありましたが、その先には子どもたちの楽しそうに遊ぶ姿がありました。
歴史の変わり目に立ち会った気持ち…。





9.7.18

ゼミ: 2nd Jul 2018(なるみ)

失礼します。松本ゼミのなるみです。
7/2の15分せんせいはさとみ先生でした!
「おりおりぎゅうぎゅうしんぶん」という、新聞紙の上に数人で乗ってスリル感が楽しめる遊びを提示してくれました。先生役とじゃんけんをし、勝ちとあいこはそのまま、負けたら新聞紙を1回折る...といった具合でゲームが進んでいき、ドキドキ感も味わえてとても盛り上がる遊びだなあと思いました!また、先生役の人も「今度はパーに負けるものを出すよ」などと、じゃんけんにもバリエーションを持たせることで子どもたちがさらに楽しめる工夫もたくさん出来る遊びだと感じました。
保育所のおやつ~降所前のちょっとした時間や、以上児での異年齢保育でも使えるなと思います!みなさんスリル感を楽しみながら遊んでいました!
さとみ先生ありがとう!!








5.7.18

Sleepoverから学ぶ(松本)

再び、中学校の話です。
先週の金曜日から土曜日にかけて、Secondary School(日本で言うと中学+高校)でSleepover=お泊まりのイベントがあり、長女が出かけてきました。
主催したのは、学校と、ここCanterburyに拠点を置く、Porchlightというチャリティーの団体です。
中学生らしく、友だちとわいわい、さまざまなことに笑い転げながら、楽しい一晩を過ごして帰ってきました。
現地校にひとりで飛び込んで2ヶ月。考えてみれば大したものです。

Porchlightの目的は、Homelessの人たちの支援。
Homelessというと、どちらかといえば年配の男性を思い浮かべることが多いかもしれませんが、中学生くらいの年齢でも、さまざまな事情で路上で夜を明かさざるを得ない子どもたちがいるそうです。
Sleepoverのパンフレットには、家族の事情で、15歳で家を離れ、路上で一夜を過ごさざるを得なかった子どものエピソードが出ています。

街で出会ったとき、なかなか目を合わせられないこともあるあの人たちは、この夜空のもとでどんな思いでいるのだろう。
友だちと芝生の上で泊まった一晩は、とても楽しかったけれど、とても寒かったようです。

Porchlightと学校が共同で取り組むこの 'sponsored sleepout' は、中学・高校に限らず、小学校も含め、ここカンタベリーではポピュラーな取り組みのようです。
自分と同じ年の子どもが、たまたま生まれた境遇が異なったがゆえに、夜を路上で過ごさざるを得ないこともある。
教室で、机上で学んでもなかなか実感をもって迫ってこないけれど、いきなりそこに迫っていくのも実際のところ躊躇してしまう。たとえ寄付というかたちでお金を出しても、その先にあるものはなかなか見えてこない。
でも、PorchlightもSleepoverのパンフレットで強調しているように、大切な仲間と、楽しさの中でいつの間にかにそれを実感できる学びの機会にこんなかたちで出会えることは、その子の人生においてかけがえのない経験をつくるかもしれません。

日本の学校や、子ども会での宿泊活動のねらいは、どこにあるでしょうか。
小学校高学年から高校生にかけての多感な時期だからこそ、こんなかたちで、私たちの社会を少しずつ前に進めていくための経験を、宿泊活動の中にちょっぴり盛り込むのも意義深いかなと思います。





2.7.18

ゼミ その2: 25th Jun 2018(さとみ)

3年の片山です。
6/25のゼミでの15分せんせいの報告をさせていただきます。

今回の15分せんせいはみほ先生でした!
折り紙で手作りこまをつくりました。
3色の折り紙を自分で自由に選べるということで、一人ひとり個性のあるこまが出来上がりました。
工程が多かったり複雑なところもありましたが、教え合いながら進めていく様子も見られて、子どもたちがつくる時にもこんな風に教え合う姿が見られるのではないかなと思いました。
完成した後みんなでお互いのこまを見て「この色きれい」「折り方上手だね」など、それぞれのこまの良いところをたくさん見つけられました。
その後にテーブルの真ん中で回して遊んでみました。
せーので回してみたり、お互いのコマを当てて回してみたりと、みんなで一緒に遊べたのも楽しかったです!

みほ先生ありがとう!!






29.6.18

ゼミ: 25th Jun 2018(田中志歩)

先日のゼミは、発表を私ができる日でした。
2週間前頃から、何についてみんなで話し合えば面白いかなあ。
そんなことを考えながらレジュメを作成しました。
私の専門は国際教育開発で、研究テーマはバングラデシュの少数民族教育です。
だから、こういう研究の話を持っていったらみんなと、どんな話になるのかなあとワクワクドキドキしながら、発表しました。

今回のテーマは「学校の役割って何だろう?」にしました。

話し合った内容をまとめる前に、修士論文執筆のための研究で扱うバングラデシュの小規模少数民族のクミ民族について簡単に先に書きます。

クミ民族の人口は2999人(2017)。
少し古いデータですが2008年のCHTDF(Chittagong Hill Tracts Development Facility)の調査によるとクミ民族の非就学率は88%と、バングラデシュの少数民族の中で一番非就学率が高いです。

こんな、クミ民族の村に日本人が訪れると、よくこんな言葉をかけられる場面に遭遇します。
それは、「ここにいる子どもたちにとって学校っていらなくない?」「みんな幸せにくらしてるじゃん。」です。
これらの言葉を、耳にすると私は(ああ。また、でた。どうしようかなあ。)という困惑する気持ちと、学校に行くことが当たり前の環境として整っている日本で育った私たちが相手の生活を表面だけ見て、勝手にそんなこと言っちゃだめじゃないの。と、少々のいらだった感情があふれてしまいます。
でも、豊かな自然、自給自足の生活、大家族に親戚たち、おせっかいなぐらいかかわりを持とうとするご近所さんたち。今の日本の姿と比較して、その人的資源や人とのつながりの濃さに対する実態を目の当たりにすると、そんなコメントをする人の気持ちも分かるのが正直なところです。

しかし、バングラデシュは2007年に初等教育就学率が97%を達成していて、バングラデシュの大多数の人々にとっては学校に行くことが当たり前になっているのが現状です。それでも、やっぱりクミ民族の子どもたちには学校はいらないのでしょうか。

こんな疑問をずーっと抱えながら、答え探しの毎日を過ごし、学会発表の際にも、毎回のように「このような環境にいるクミ民族の教育の必要性とは?」という「そもそも」を考えさせられる問いが投げかけられ、なんて答えればいいのだろうか。
研究が進めば答えが出るものだろうか。と、思い悩んでいました。

発表しながらみんなどんなことを考えるんだろう。と考えていましたが、話し終わった後に、みんなが「子ども目線」でのコメントや質問をしてくれたことが私はとても印象的でした。

調査に行くと先生や親といった「大人」と私は話しがちです。
子どもは、見ていてかわいいけど、インタビューをしてみても、言ってることは分かるのだけど意味が取れなかったり、些細なことが返答として帰ってくることが多いので、どうしても、避けてしまいがちにしてしまっている自分に気づかされました。

それでも、やっぱり、幼児研究科のみんなの視点は難しくても「子ども」なのだなあということが分かって、夏の訪問の際には「子ども目線」を1日1回はできるようにしたいと思いました。

また、みんなの質問や、松本先生からの話の中で
「ここじゃない場所を見せることのできるツールとしての学校や教育」という言葉がしっくりきました。
クミ民族の人々が、教育を受容する中でどのような変容が起きているのか、そして、起きてくるのかをつぶさに調査していきたいです。

そして、これから修論までに、クミの村と同じような状況に昔あって今は学校に行くことが当たり前とされているケース(バングラデシュの大多数のベンガル人の村など)が、どのように学校教育が入ってきたことで変容してきたのかを調べてみたいと思いました。

写真は、クミの村にある公立小学校(バングラデシュの小学校は1~5年生)の様子です。
小学1年生から3年生の児童が同じ教室で勉強しています。(4・5年生が一緒の教室)
まだ、ベンガル語を話すのがちょっと恥ずかしいようで、話しかけると、ぴゅーっと、逃げて行かれてしまうこともしばしば。
また、みんなに夏に合えるのが楽しみです!


27.6.18

Three months(松本)

今日でちょうど3ヶ月。ということは、在外研究機関の1/4が過ぎたことになります。
-term 0: とにかくみんなで生活の立ち上げ……半月と少し
-term 1: 研究所での仕事&子どもたちの学校生活の立ち上げ、旧年度からの持ち越し仕事の続き、学生に研究指導……半月と少し
-term 2: 再審査論文の修正、研究発表の下準備、Skypeゼミの立ち上げ……1ヶ月と少し
-term 3: 研究発表×3、保育施設&学校訪問、研究計画の練り直し、学会参加……今ここ 2週間経過:残り1ヶ月ほど
という感じで歩んできました。ここを越えると、夏休みになります。
英語での仕事や手続きは、日本語よりちょっぴり余計な時間がかかること、合間に定期的にこちらの会議やゼミ、日本の仕事をはさんでいること等もあるからか、率直に言ってがっつり何かが進んだ手応えを感じられているわけではないのですが、これまでとは違う時間の使い方ができていることは確かです。日本で支えてくれている仲間に感謝しながら、残りの3/4の時間を大切に過ごしたいと思います。

自分の仕事を進めたり、子どもたちの学校のエピソードを聞きつつ、このところ考えさせられているのは、こちらの社会の中では「そのヒトなりに歩もうとしている姿を尊重する」ことについて、その多少はあれど、人々の間でのなんとなくの合意や、それを支える制度設計が担保されているのでは、という点です。
学校しかり、その他の場での出来事しかり。そんな場面で、私たち日本の社会では「そのヒトの行動は善なのか、悪なのか?」という観点で議論されることがあまりに多い気がするのですが、こちらの社会では、もしそれが問題になるとすれば、むしろ「歩もうとしているそのヒトの行動を妨げたり、足を引っ張る権利が他者(である‘あなた’)にあるか?」というかたちで論じられそうな気がします。
学校等での子どもたちの行動、子育てのスタイル、恋愛や結婚、家族のかたち等々、多様なトピックが思い浮かびますが、こういった問いの立て方は、日本社会では少ない気がするのですが、どうでしょうか。「公共」を問いかける宛先の問題というか。。。
人権観や、尊厳ということと関わっているように感じますが、まだ自分の中であまり練れていないので、今しばらく時間を使って考えていきたいと思っています。

そのヒトなりに歩んだ結果が、うまくいかないことは多々あるでしょう。しかし仮にそうだとしても、萎縮せずに励まされた履歴が残ることは、次の工夫と挑戦の可能性をふくらませることも、また確かなことかなと思うのです。