土曜日, 7月 09, 2022

6/7ゼミ『溶かして、変える』By Yuna

こんにちは、松本ゼミ3年の吉原ゆなです。

 今年度から松本ゼミでお世話になります、よろしくお願いいたします。短大でのゼミとは違った活動が多く、松本ゼミのみなさんから多くの刺激を受けています。これからも、新たな視点・考え方に触れ、視野を広げていきたいと思います。今回私が、第2章『溶かして、変える』(ブレイディみかこ(2021)『他者の靴を履く アナ―キック・エンパシーのすすめ』(文芸春秋)P38-65)のまとめを担当しました。

 主なテーマは『アイデンティティ』についてでした。私はまず、槇さんの「他者の靴を履くときには、推察も大切ではあるが履いてからでないと始まらない」という意見に気づかされました。自分の内で考え言語化せず、行動に移すこともないままでいることは、ただの自己満足・靴を履いた気になっている状態であることに気づきました。他者の靴を履くということは、自分の偏見や嫌悪感を超えるところから始まるのかなとも思いました。私も、相手が偏見などの色眼鏡をかけて近づいてこられれば、心を閉ざします。逆に、色眼鏡を外し、分からないながらも理解しようと模索し、本音で向き合おうとされれば、自分の靴について話せるだろうなと思いました。

 では、本音で向き合おうとしたとき、どのようにすれば伝え合うことができるのでしょうか。文中に『言語化』という言葉が出てきました。TC(Therapeutic Community: 刑務所内で治癒・回復のために実践されているプログラムである「回復共同体」)や劇などで、自分ではない誰かになりきることで、その気持ちを言語化していくことで、伝える能力が高まっていくとありました。本当の自分や本音を話せていないと感じるのは、この言語化する機会が少なかったためではないかと、意見交流を通して気づくことができました。保育現場では、話せる子どもには、なるべくその子どもの言葉で話す機会を大切にすることと、繋がりがあるようにも感じました。

 今日の話し合いを経て、なぜ人は気持ちを素直に言語化したり、相手の言葉に疑心を覚えたりしやすいのか考えることができました。『本当の自分』や『本当の誰か』は、いつの間にか一つだけと思いこんでしまうのは、社会的な風潮が影響していること。自分の多面性(四つの窓)を一つにしようとすることから、自分の靴について一貫した見方ができず、履こうとした人・履いた人に対して「そんなんじゃない」となってしまうのではないかと思いました。

 初めて読む部類の本であったため、読み込みが浅いまま話し合いに参加することになってしまいました。しかし、様々な意見から自分がどう考えているのか、何を見落としていたのかを少しではありますが気づくことができたので、とても新鮮でした。意見交流を積み重ねていった先で、現在よりも豊かな意識を持つことができるように、丁寧に内容を深めていきたいです。







金曜日, 6月 10, 2022

5/31ゼミ『外して、広げる』by Yuriko

 こんにちは!松本ゼミ4年の槇優梨子です。

 今年度からゆなちゃんが松本ゼミに加わりました! これからまた新たな松本ゼミのみんなで楽しく交流を深めつつ、様々なことを考えたり、そこから学んだりしていけたらいいなと思います!

 今回は私が、はじまりの第1章『外して、広げる』(ブレイディみかこ(2021)他者の靴を履く アナ―キック・エンパシーのすすめ(文芸春秋)p1~37)のまとめを担当しました。

 主なテーマは『他者理解』についてでした私はまず、ゆなちゃんの「他者理解は自分をモデルにしなければ(自分の経験が邪魔をしないので)いいのではないか、でも人間は何かを基準にしなければそもそも理解をすることが難しい」という意見に対して、なるほどと思いました。確かに自分の経験から学んだことを良くも悪くも自分の価値基準にして、何かを判断しています。そしてそれは人間ならば誰しもが自然と行っていることです。でももし生まれてから一度もなんの経験もしていないとすれば、きっと物事を偏見なく見ることが出来るだろうし、他者をそのまま受け入れることが出来るのかもしれないと思います。でも、もし今まで一度も誰かに助けられたことがない、誰かが誰かを助ける場面を見たことがないのならば、たとえ偏見なく他者を見ることが出来たとしても、助けるという行為はきっと思いつかないので、人間の経験は決して悪ではないだろうとも思います。

 

では様々な経験を持った私たちが、自分の靴をちゃんと脱いで、他人の靴を履くことは可能なのでしょうか。話し合いの中で『カウンセリングマインド』という言葉が出てきました。情動的ではなく、知的な形での共感。確かにそれは自分の靴を脱いで、他人の靴を履くことにとても近いと思います。でも、それはカウンセリングにとっては大事な心の活動ですが、現実生活の中でそのような共感をし続けるのは不可能であるとともに、それに相手が気付いた瞬間「ああ、形式的なものだったのか」となんだか虚しくなってしまうこともあります。そして、そもそも自分が手に入れたい『他人の靴を履く』行為はたぶん知的な形での共感ではなく、現実生活における情動的な共感だけど偏りが少ないというような状態であって、カウンセリングマインドは少し違うのかなとも思いました。


そんな中でわかなが「どんなに自分が『絶対履けない!履きたくない!』と思うような靴でも、一旦何も考えずに履いてみる。そして履いた状態で動いてみると、なんだか少しずつ馴染んできて今まで見えてこなかった景色が見える。これが大事なのかも。という話を例とともにしてくれました。私はそれまで『履く』という行為にしか焦点を当てていなかったけれど、履くだけじゃなくて履いた状態で動いてみるとたしかに、履いた時はあった自分の偏見や嫌悪感が無くなるとまでは言わなくても、動いているうちに何かしらの変化をもたらしそうな気がします。もちろん「私の靴を履いたつもりになっているけど、それは履けていない!」と言われ落ち込むこともあるかもしれないけれど、履いて動いてみる中で見えた新たな視点は決して無駄にはならないだろうなとも思いました。

 

今日の話し合いを経て、自分とは違う経験をした人と関わる機会を増やす、自分が今まで触れてこなかったものに触れてみる、とりあえず一旦その経験を深めてみる(履いて動いてみる)。そんな自分にとって「新しい!」という経験が一つ増えると、その次にそれに関連した物事に触れたときはもうそれが「新しい!」ではなく、前の経験がより深まる経験となるなと気付きました。そうやって知っていることがたくさん増えたり、いろんな人の視点に気付く経験を積み重ねたりしていくことで、無意識的に多面的な見方ができるようになり、すぐに物事を断定しなくなり、それが『自分の靴をちゃんと脱いで、他人の靴を履く』ことにつながっていくんじゃないかなと思いました。

 

久しぶりに本を読んで考える活動をしましたが、みんなで話し合うことで、自分がまとめを作っているときには意識しなかった部分に気付けたり、みんなの新たな視点を取り入れたことで自分自身としての考えをより深めるきっかけとなったりするので、改めて大事な時間だなあと感じました。これからの本の展開とともに、私たちの中でどのような視点や考え方が生まれていくのかがとっても楽しみです。





土曜日, 3月 26, 2022

Leaving 2022

今年もこの日が来ました。大学教員として働いてちょうど20年。今年のゼミからは、心優しき島の子はなちゃん、笑顔のはちきんりっちゃん、がんばる小さな巨人みさきの3人が巣立っていきます。

それぞれの道を歩んでいく中で、時に険しい何かにぶつかることもあるでしょう。
そんなときは、直島での卒業遠足で楽しんだ、家プロジェクト・南寺でのあの感覚をちょっぴり思い出してもらえたらと思います。

すぐそこにある筈の先を照らす光が、今はまだ見えなくとも、少しの時間が経った後にはじめて見えてくることもある。そこに至るまでの長さもまた、あなたらしさです。
そんなときは、また一緒に座って待つから大丈夫。

卒業おめでとう。かけがえのない日々はこれで一区切り。
そろそろ出航の時です。
また会える日を楽しみにしています!



『少人数集団と子どもの経験 —集団内集団の形成が困難な就学前施設に着目して—』
『保育場面における保育者の心の余裕を保障するために』
『子どもにとっての空想の友達とは —空想の友達を持つ子どもを支えるために—』

3人それぞれ、とても質の高い魅力的な研究をまとめました。

今年、私もみんなと同じタイミングで博士学位を取得しました。
『保育実践を介した幼児期の文字習得の検討—社会的側面に着目した初期リテラシー発達の視点から—』

せっかくなので一緒に並べて。








木曜日, 8月 19, 2021

7/13 ゼミ『子ども観をさかのぼる』(宮原)

 こんにちは。松本ゼミ3年の宮原です。

 今回は、第5章『子ども観をさかのぼる』(川田学(2021)『保育的発達論のはじまり』(ひとなる書房)p.90~p.100)を読みました。本章を担当してくださったのは、りささんです!

 本章では、子ども観が時代や文化によって様々であるということから発展して、ことばと実践の結びつきについて語られており、そこから、子ども観や子育て論の変遷へと話が展開されていました。本章の内容を踏まえて、いくつかの保育実践に触れながら意見交換を進めました。

 私が話し合いの中で特に残ったところは、りささんの『子どもの成長を支えるために環境を整えることは、同時に周囲が子どもの成長をコントロールする力を持っているということなのではないか』ということばと、『育ってほしい枝の成長を支えるために切った枝がとても輝く可能性があるかも知れない。』という部分です。。これらのことから、保育者は自分のこれまでの経験や知識などにとらわれずに色々な人の持つ多様な<観>を吸収しながら、目の前の子どもに向き合いその子の可能性を広げられるような保育をしていくことが大切だと感じました。

 りささんがみんなで考えたいこととして提案してくださったのは、『自分たちから見る子どもの姿と保育者から見る子どもの姿、同じ姿を見ているけれど捉え方が違うなと思った実践はありますか?』と、『現代、私たちはどうして子どもへ愛着や関心を抱くのか、子どもの何を大切にして子育てや保育をしていくべきなのか』の2点です。

 一つ目の疑問に対して、まず初めに、子どもの姿一つを取っても、その姿の背景を知っているかどうかによって捉え方は変わってくるという話が出ました。次に、実習での経験から、子どもの状況や気持ちを知るためには、やはり子どもの声を聞くことが大切なのではないか、という意見もありました。そして、給食を食べない児童がいたらどのように対応をするかという質問への、小学校コースの学生と、幼児教育コースの学生の間での回答の相違点から、自分のもつ価値観や置かれている状況も、子どもの姿の理解において重要な要素になってくるのではないかという話にもなりました。この話し合いを通して、自分がこれまで子どもにこう育って欲しいと思い考えていた指導案のねらいや、こうすることが子どもにとっていいことだと考えてしてきた関わり方は、子どもにとって本当によいものだったのかと改めて考えさせられるとともに、当たり前だと思ってきたことに疑問を持ちながら子どもと関わっていくことが大切なのだとわかりました。

 次に二つ目の疑問に対して、現代の競争社会では、将来を決めるのは自分自身の力次第であるため、保護者がいかに子どもの可能性を広げていけるかが重要だという意見が出た一方で、経済格差などがあり、現代の競争社会は平等な競争だとは言えないために評価軸が明確でなくなってしまっているのではないかという意見もありました。

 社会の変化に着目し、身分制度がなくなったことで、現代社会では保護者が自分の思いに正直に、子どもを育てていけるようになったのではないかという考えが出ました。そして、最後はりささんが、『社会』や『保育者として』ということ以前に、子どもには元気にすくすくと育って欲しいと願いながら日々関わっているのではないかという話で締めくくりました。

 本章を読んで、時代や文化というのは、保育や子育てに大きな影響を及ぼすものなのだと改めてわかりました。これから読んでいく第6章から第8章にかけて、発達と社会に関して述べられているので、第5章で学んだ内容をさらに深めていけると思うと楽しみです。

 ゼミの意見交換は、毎回自分になかった視点を与えてくれます。ゼミのメンバーの皆さんは自分にはない素晴らしい意見を持っていて、自分と比較して落ち込むことも多いですが、ゼミでの学びを通してしっかり成長していけるように頑張ります!





土曜日, 7月 17, 2021

7/6ゼミ『してもらう、する、してあげる、させてあげる』(槇)

 こんにちは。松本ゼミ3年の槇です。

 今回は、第四章『してもらう、する、してあげる、させてあげる』(川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房)p.74~88)を読みました!本章を担当してくれたのは3年のわかなです!

 本章は、〈ワタシ〉と〈アナタ〉が話者によって交替することを子どもが理解することの難しさと面白さから始まり、そこから子どもたちの自己意識が自己を離れ、だんだんと他者へと拡張していく育みへの着目を経て、本章の題名である「してもらう、する、してあげる、させてあげる」の考察が述べられています。その展開がとても興味深かったです。

 私は今回の「させてあげる」の部分を読んだときに無意識的に保護者・保育者から子どもへの働きかけを想像していたため、本書の事例が子どもから子どもへの働きかけであることをとても新鮮に感じました。この部分での話し合いにおいて、私はとくにりささんの、「パズルをすることは苦手だけれど、その動作を純粋に楽しんでいる子どもに対してほかの子どもがやってあげようとする」という事例が印象に残りました。子ども達は「全然進んでいないから手伝ってあげよう」と思っていますが、その子にはほかの子ども達のことが「自分がやりたいのに勝手にやろうとしてくる迷惑な人たち」として映っていることでしょう。これはきっと「する」「してあげる」の行動だと思います。ここから「させてあげる」という行動ができるようになるには他人の心を推し量り、「あえて」の行動(あえて手を貸さず、自分でできた!を支援する、など)ができるようになる新たな発達の展開が必要なのだと学びました。また、「させてあげる」という動作は保育環境、誰を主体として見るか、によって捉え方も変わってくるので一概にその行動を「させてあげる」の行動だと言い切るのは難しいという話もしました。また、「それをしたら褒められるから」という感情で動くことは能動的と言えるのか、という問いもとても印象に残りました。

 わかながみんなで考えたいこととして提案してくれたのは、機械が保育の現場に入ってくることは子どもの発達などにどのような影響を及ぼすのだろうか、能動と受容の一体的な経験を経て育まれていく主体性は機械だと育むことはできるのか、の2点です。

 まず一つ目の疑問に対して、機械と関わる中で子どもと機械との間にどのような状態が生じるか、ということについて話し合いました。表情や声のトーンが変わらないため、普段人との会話の中で何気なく働かせる「察する」という心の動きが必要なく、それと反対に、自分の気持ちが相手に伝わったか伝わっていないかを考えることがなくなる、など、人間ならではの「心の内」という部分に関する機械との比較がたくさん挙げられました。また、機械とのかかわりは「絶対的なものとして存在し続けるという安心感」があるが、同時に「この言い方をしたらこの人はどう思うだろう」というこちら側の感情の発生をなくし、「いつかいなくなってしまうかもしれない儚さ」もなく、それは虚しさを生むかもしれないという話も出ました。

 二つ目の疑問に対しては一つ目の疑問とも繋がって、人ならではの「意外性」がなくなることはすなわち、空気感を肌で感じる必要性がなくなるため、前回までの議論で出てきた「主体性の育みの中で必要な、他者とのかかわりの中での揺らぎ」がなくなるのではないか、という意見が出てきました。結論には達していませんが、子どもの主体性の発達に対する意外性のある人間のかかわりが生み出す揺らぎの大切さを改めて実感する話し合いとなりました。

 先生や先輩方と一つの議題について思い思いに意見交換をさせていただく時間は毎回大変緊張するものですが、その時間を経て、自分の中での学びが深まったり、新たな視点を吸収したりできるのがとても楽しく、本当に大切な時間だなと感じています。これからもゼミでのたくさんの学びを吸収しながら、成長していきたいと思っております。



火曜日, 7月 06, 2021

6/29 ゼミ『人間の赤ちゃんが“未熟”であることの意味』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙橋です。今回は、第2部,第3章「人間の赤ちゃんが“未熟”であることの意味」(川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房)p.54~73)を読みました。本章を担当してくれたのはまきろんです!


 本章では動物と人間の赤ちゃんを比較する中で人間の自由について述べられており、とても興味深かったです。動物は「探索的自由」(=自分で動きまわって生存に有利な行動をすることができること)を増大させていくのに対し、人間は「拡張身体的自由」(=自分の代わりに他者に実現してもらうことで欲求や好奇心を満たすこと)を最初に手に入れ、それを土台に「探索的自由」を手に入れて増大させていきます。赤ちゃんが泣いたり手足をバタバタさせたりしていると、周りの人は「どうしたの?お腹がすいたの?」などと赤ちゃんの欲求を探りながらミルクをあげたりおむつを替えたりするでしょう。このことを本章では「まわりの人が赤ちゃんのかわりに動いてあげている」と表しています。赤ちゃんに対する大人の応答的関わりは赤ちゃんと外の世界をつなげる懸け橋となるのだと感じました。

 私は、大人にとって正解ではないことを子どもが発した時に「なぜそう思うのか」を問うことで子どものものの見方が分かって子どもの視野の広がりにつながる、というまきろんの考えが印象的でした。「なぜそう思ったのか」と子どもの意図を探り、もしかしたらそれは間違いではないのかもしれない、そのような考え方もできるね、などと捉えることで、大人にとっての間違いがくつがえされ、子どもの見方を受け入れることができるのではないかと思いました。それによって子どもは自分の考えをさらに出せるようになり、物事に対して多方面から思いを馳せ、考え、視野を広げていくのでしょう。大人が子どもの思考の過程に注目し、「どのように考えたのだろう」と思考の過程に興味をもつことが大切だと思います。


 まきろんがみんなで考えたいこととして提案してくれたのは、赤ちゃんの主体性とは何か、人間にとって「自由」とは何か、の2つです。

 まず、1つ目の疑問に対して、赤ちゃんの主体性を保障するための条件を話し合いました。子どもが発したことを受け止めたり反応したりすることは大切、赤ちゃんの泣きに反応することで赤ちゃんが自己主張できるようになるのでは?、楽しい雰囲気は赤ちゃんにも伝わるから応答的関わりって大切だな、などの意見が出てきました。これらの意見と本章の内容を通して、赤ちゃんにとっての安全基地のような存在(親や保育者など)が必要だと思いました。自分で動き回って探索する際、不安になったり嫌な思いをしたりすることもあるでしょう。そんな時に「怖かったねー。もう大丈夫だよ。」と守ってくれ、避難できる場所があれば、安心して次の探索へと旅立つことができると思います。子どもの探索活動の土台には、愛着形成・信頼関係の築きによる大人の存在があるのだと感じました。

 2つ目の疑問に対して、まきろんは「揺れ動きの中で受け止められたり突き放されたりしながら他者と関わっていくことが保障されていること」が「自由」なのだと考えていました。このことから、他者がいることで人は自由を得ているのだとわかりました。自分にも他者にも自由があるため、自由を実現するためには他者の承認が必要です。他者がいても承認されなければ自由を実現できない場合も考えられますが、他者を介在してこそ自由を得られるのだと感じました。また、自分の自由も他者の自由も尊重するために、互いの自由を互いに承認すること(≒折り合いをつけること)が大切だと思い、子どもにも遊びや生活の中で伝えていくべきことだなと感じました。


 他者がいるから挑戦したり自由を手に入れたりすることができるのだとわかり、他者の存在の大切さやありがたさを感じた時間でした。






火曜日, 6月 29, 2021

6/22 ゼミ『保育の中でとらえる主体性』(山﨑)

 こんにちは。松本ゼミ4年の山﨑です。

 今回は、第二章『保育の中でとらえる主体性』です。担当してくれたのは未咲ちゃんです。これまでの章で、「主体性」とは「その子どもが周囲とのあいだに結んでいる関係の状態」であることについて考えてきました。そこから、2章では「集団」と「主体性」はお互いに絡まり合いながら発展・発達するより糸のような関係であるという話が出てきました。子どもと友だち、モノ、集団との関係は固定されているものではなく、毎日常に変化していくものです。昨日同じ遊びをして一緒にいたからといって明日もそうとは限らないし、今日はどうしても食べたくなかった嫌いな食べ物が明日になって急に食べられるようになることだってあります。子どもから出るより糸は常にその絡まり方を変えながら、複雑に絡まり合っているのだと感じました。

 私は、未咲ちゃんがレジュメに書いてくれた、保育者の子どもへの働きかけの図がとても印象に残っています。保育者が一人の子に働きかけると、何かしらの形でその子が変化します。そうするとその子に関わる別の子にも変化が生じ、保育者が直接働きかけていない子にも間接的に働きかけていることになるのでは?ということを表した図でした。私はその図を見て、実習先で先生がおっしゃっていた「ひとりに向き合うことはクラスに向き合うことになる」という言葉を思い出しました。集団をとるのか、個をとるのかというのはよく聞く話です。私自身も実習中に一人に注目すると周りが見えなくなり、全体を見ようとすると一人ひとりが見えなくなって…という経験をたくさんしてきましたが、その背景には実は時間に追われていたり、この流れでやらなきゃ!という意識があったからかもしれないとみんなと話す中で気付きました。

 未咲ちゃんがみんなで話し合いたいこととして出してくれたのは、「子どもの主体性を大切にする」とはどういうことか、保育者はどうすればいいのかという疑問です。とても深くて大きな問いなので、これが答えだ!というものは出すことは難しいですが、みんなで悩みながら条件を考えてみました。子どもの考える時間を保証することって大事だよね~、子どもと大人との間のやりとりである「揺れ動き」は大切にしたい!子どもが自分とは違う考えを持つ他人のことを受け入れていけるように、保育者が「みんな違ってみんないいんだよ」ということを伝え続けていくことが大事なんじゃないかな、いろいろな意見が出てきました。その中で、未咲ちゃんが「保育者が完璧でいようとしないこと」と言ってくれました。これは名言だ!と思いました。例えば、保育者がピーマンが苦手だったとします。子どもたちが先生にも苦手なものがあるんだと知ることは、世の中にはいろいろな人がいるんだなと、違いを認めていける雰囲気づくりにつながるかもしれません。先生ががんばってピーマンを食べようと挑戦している姿を見て、ぼくもがんばってみようかなと思う子もいるかもしれません。主体性には他者の存在は不可欠です。保育者が子どもにとって一緒に考えたり、悩んだり、迷ったりする存在になることが、子どもの考える時間を保証することにつながり、「揺れ動き」を大切にすることになるのではないかと思いました。

 新しく3年生の2人がゼミに入ってきてくれて、また改めてゼミのみんなで考えたり話し合えたりできることの大切さを感じています。ゼミでの話はいつも私にこれまでなかった考え方をくれます。これからもゼミを通してたくさんのことを吸収して成長していきたいです!