31.7.18

In bocca al lupo(松本)

7月も今日で終わり。こちらでの生活も4ヶ月。つまりは1/3が経過しました。
日本とは比ぶべくもないですが、こちらも例年に比べると、先週までの数週間はかなりの猛暑。先週はイギリス記録の38.5度(ここKentでの記録のようです)を越えるとか越えないとか言われていました。今週はすっかり落ち着いています。

今月は年度末。
駆け込みで取り組んだのは、秋以降に調査のために定期的に訪問をお願いするprimary schoolの確保と、研究を進めるためのさまざまな手続きです。
夏休みは、多くの人がまとまった休暇を取り、primary schoolとも休み中に連絡をとることは難しいようで、結果的にあれこれの手続きを思った以上に急ぐはめになりました。

最も難儀したのは、調査にあたっての、研究倫理が担保されているか承認をとるための、学内委員会への申請のための書類作成です。英語では経験がない内容の書類を、短期間でそれなりの量と質で仕上げる必要があり苦戦しましたが、ありがたくもいろいろな人の手を借りながら、終わってみれば〆切より少し早く仕上げることができました。いやはや珍しい!
研究計画に関するpeer review として同僚にコメントをもらうことが義務づけられているなど、これまで自分がしてきたプロセスとはかなり異なることが多く、ここまで言葉にして説明するのか!という驚きやひっかかりも含め、よい勉強になりました。
日本の心理学や教育学では、学会レヴェルでは倫理綱領やガイドラインが整備されているものの、どちらかといえば自己点検的な意味合いが強く、互いを尊重しつつ、点検し高め合っていく面は、まだこれからの課題のように思います。
特にお互いのものにコメントしあうのは、透明性の確保と研究内容に関する互いの信頼関係を高めるのにも効果的ではないかと感じました。
新たな共同研究や研究助成申請への道が開けるという、思わぬ副産物にもつながりそうです。ありがたい。。。

さて、7月が年度末ということは、卒業と別れの季節となります。
大学の私の身近なところでも、さまざまな事情があり何人かが職場を離れるということで、少しさみしくなります。
送別のための会で、Coffee & Pastiesを用意するのは旅発つ本人!という、噂には聞いていた風習も経験することができました。

というわけで、数人は新たな道へ。
残る人たちは、Summer Holiaysに突入したり、もうひといき働いてからAnnual leaveに入ったりとさまざま。
きちんと休んで、新しい年度へのエネルギーを貯めているのでしょう。

やりたいことを挙げると時間がいくらあっても足りませんが、こちらももうひといき進めたら、しっかり休んで、貴重な異国での家族との夏休みを満喫したいと思います。

表題は(もちろん!にわか勉強の)イタリア語で、Good Luck!
今日、Milanに戻った隣席の仲間と交わした一言です。
みなさんもよい夏を!




29.7.18

ゼミ: 23rd Jul 2018(さとみ)

7/23のゼミでの15分せんせいの報告をさせていただきます。

今回の15分せんせいはなるみ先生でした!
折り紙でセミを折り、それをスポンジで作ったスタンプを使って描いた木の絵に貼っていって、夏の木をつくろうという活動でした。

折り紙のセミは、好きな色で好きな数だけつくれるということで、それぞれが納得のいくまで折っていました。顔や模様もクレヨンで描き、個性のあるセミがたくさんできていました。
木のスタンプでは、緑と黄緑の絵の具で葉っぱを描いていきました。途中で、スポンジに両方の絵の具をつけてみるとグラデーションができて綺麗なことを見つけ、混ぜたりしながら葉っぱがいっぱいになるまでみんなでスタンプを押していました。
個人での作業もありながら、みんなで一つのものをつくるということで、友だちと協力したり一緒に話し合いながらつくることができるのではないかと感じました。
完成したものは以前つくったかたつむりと一緒にゼミ室に飾り、よりゼミ室が賑やかになりました!

なるみ先生ありがとう!!





15.7.18

夏祭り(松本)

渡英して3ヶ月半が過ぎました。
日本でも、夏真っ盛りの気温と湿度だと思いますが、こちらでも気づけば夏本番に。
大学では、学生は夏休みに入ったようです。イタリアほか、少し早く始まっている欧州各国の夏休みシーズンとも重なるからか、このところ街は平日週末問わず、人々で溢れています。
そして、小学校や中学校は学年の大詰めで、夏休みまであとひといき。こちらの新学期は9月からのため、7月は年度末ということになります。Drama Play(演劇)の発表会やスポーツ大会、ミニ遠足や宿泊活動等、一日おきといっても過言ではないほど、行事が目白押しです。
(ただし、全ての行事が全員参加ではなく、任意参加のものもあります。その子たちのためには、きちんと別の日課が準備されているようです。)

このあいだの金曜日は、小学校のSummer Fairに。
午後の時間、3年生から5年生は、クラス毎のダンスを、間に先生のダンスが入り、最後は6年生全員での合唱。その後は校庭で、それぞれのブースでのレクや飲食を楽しみます。
最後はくじ引き大会。ありがたいことに、プールのチケットに恵まれました!

年度末の盛りだくさんの日々の中、どうやってダンスを準備したのだろう?というところが気になりましたが、聞けば準備の時間は1週間ほど。
完成度はもちろんそれなり。でも、観客である保護者たちも、先生方も、何より子どもたち当人が、自分たちが踊ったり、歌っているときはもちろん、自分の出番以外でもとても楽しそうな様子が強く印象に残りました。
先生方のダンスの際は、観客席で見ている子どもたちの7-8割が、気づけば踊り出してしまうほど。

日本の場合、卒業式といえば、小学校に限らず、幼稚園や保育所においても、練習にかなりの時間を費やすところが大半ではないかと思います。
授業時間の確保が叫ばれる昨今、卒業式に限らず、運動会や発表会など行事の練習や準備の時間をどう捻出するかは、多くの教育現場で悩ましいところかもしれません。

その貴重な1回1回の練習時間は、どこにつながり、何を生み出しているでしょうか?
「ほら、お客さんに笑顔、忘れないで!」と声をかけずとも、子どもたちがしぜんと笑顔で活動したくなるために、必要なものはなにか。
今、その指示を子どもたちに繰り返すことが、何を可能にし、何を制約するか。
私も含め、日本の保育や教育に関わる大人が、改めて振り返る価値のある課題ではないかと感じました。

学校に関わる比較教育の研究では、どちらかといえば、学力テストや、正課カリキュラムから見えてくる内容等、データとして可視化しやすい部分から論じられることが多いかなと思います。
それらの大切さは、多くの研究者が指摘するとおりでしょう。
いっぽうで、意外とこのような、課外も含めた日々の働きかけの繰り返しこそが、具体的な子どもの自己形成として折り重ねられ、インパクトをもつのではないか。
そんな視点を織り込みつつ、こちらでの新しい調査の準備を進めているところです。







10.7.18

ゼミ その2: 2nd Jul 2018(しおみん)

こんにちは。松本ゼミ4年のしおみです。いよいよ3年生が文献発表をしてくれるのも最後となりました。今回みんなで読んだのは、リリアン・G・カッツ『レッジョ・エミリアから何を学ぶか』[C.エドワーズ/L.ガンディーニ/G.フォアマン=編『子どもたちの100の言葉—レッジョ・エミリアの幼児教育』2001,世織書房, p37-65]です。
文献の中で、レッジョ・エミリアとアメリカの幼児教育では、モデルが違うとのことでした。レッジョのような大家族・地域モデルでは強く安定した人間関係の中で、時間的なプレッシャーがなく、自由に作業し、遊ぶことができます。それとは逆に、アメリカのような企業・産業モデルは教育が一方向的な過程ですすめられる中で、時間に縛られた一回限りの活動がされています。

今回、発表担当をしてくれたみほちゃんは、レッジョのような大家族・地域モデルでは、子どもの個性や得意を伸ばしやすく、苦手に目が向けられないのではないか、子どもの成長のためにはレッジョのやり方が必ずしも良いわけではないのではという議論を持ってきてくれました。それを聞いたときに、た、確かに…と思いました。

レッジョでは、子どもたちが知りたいと思うトピックについてグループで掘り下げて研究するプロジェクト活動が行われています。その活動の中で、子どもたちは絵を用いて記録しています。このような活動の中で、困難なことは沢山あるかもしれないけれど、子どもたちは苦手をあまり感じていないのではないかと考えました。それは、一緒にやる仲間がいること、自分たちが知りたいと思っているトピックだからこそだと思います。そして、このプロジェクト活動には教師自身も答えはないし、その活動の中で子どもが何を感じたか学んだかを教師が読み取っているからなのかなとも考えました。

そうなると、日本の保育では周りの子どもと比較されて苦手が分かりやすいということは確かだなと思います。そして、わたし自身も苦手なことや、周りに比べてできないことばかりだなぁと議論をしながら考えていました。大人でも周りの人と比べて、できないことや苦手なことを指摘されるのは辛いことで、できないことをできるようにする、苦手なことを得意にするというそんな単純なことではない気がします。じぶん自身も乗り越えていない苦手は沢山あります。でも、保育者だって、完璧な人はいないよなぁと勝手に自分で言い聞かせています。乗り越えていないことがあるからこそ、子どもが困難を乗り越えるときには一緒に悩んだり、ワクワクしたりすることができるのかもしれないと思いました。そして、ときには困難を与えることも保育者の仕事なのかなとも感じました。

いつもそうですが、なんだか、保育のことだけではなく、大学4年間のこと、それまでのこと、そしてこれからのじぶん自身のことも考えさせられる、そんな時間でした。

写真は今年の幼研合宿の様子です。ついでに、改めて撮ったゼミの集合写真も…。
今までとは違う新しいことに挑戦し、困難が沢山ありましたが、その先には子どもたちの楽しそうに遊ぶ姿がありました。
歴史の変わり目に立ち会った気持ち…。





9.7.18

ゼミ: 2nd Jul 2018(なるみ)

失礼します。松本ゼミのなるみです。
7/2の15分せんせいはさとみ先生でした!
「おりおりぎゅうぎゅうしんぶん」という、新聞紙の上に数人で乗ってスリル感が楽しめる遊びを提示してくれました。先生役とじゃんけんをし、勝ちとあいこはそのまま、負けたら新聞紙を1回折る...といった具合でゲームが進んでいき、ドキドキ感も味わえてとても盛り上がる遊びだなあと思いました!また、先生役の人も「今度はパーに負けるものを出すよ」などと、じゃんけんにもバリエーションを持たせることで子どもたちがさらに楽しめる工夫もたくさん出来る遊びだと感じました。
保育所のおやつ~降所前のちょっとした時間や、以上児での異年齢保育でも使えるなと思います!みなさんスリル感を楽しみながら遊んでいました!
さとみ先生ありがとう!!








5.7.18

Sleepoverから学ぶ(松本)

再び、中学校の話です。
先週の金曜日から土曜日にかけて、Secondary School(日本で言うと中学+高校)でSleepover=お泊まりのイベントがあり、長女が出かけてきました。
主催したのは、学校と、ここCanterburyに拠点を置く、Porchlightというチャリティーの団体です。
中学生らしく、友だちとわいわい、さまざまなことに笑い転げながら、楽しい一晩を過ごして帰ってきました。
現地校にひとりで飛び込んで2ヶ月。考えてみれば大したものです。

Porchlightの目的は、Homelessの人たちの支援。
Homelessというと、どちらかといえば年配の男性を思い浮かべることが多いかもしれませんが、中学生くらいの年齢でも、さまざまな事情で路上で夜を明かさざるを得ない子どもたちがいるそうです。
Sleepoverのパンフレットには、家族の事情で、15歳で家を離れ、路上で一夜を過ごさざるを得なかった子どものエピソードが出ています。

街で出会ったとき、なかなか目を合わせられないこともあるあの人たちは、この夜空のもとでどんな思いでいるのだろう。
友だちと芝生の上で泊まった一晩は、とても楽しかったけれど、とても寒かったようです。

Porchlightと学校が共同で取り組むこの 'sponsored sleepout' は、中学・高校に限らず、小学校も含め、ここカンタベリーではポピュラーな取り組みのようです。
自分と同じ年の子どもが、たまたま生まれた境遇が異なったがゆえに、夜を路上で過ごさざるを得ないこともある。
教室で、机上で学んでもなかなか実感をもって迫ってこないけれど、いきなりそこに迫っていくのも実際のところ躊躇してしまう。たとえ寄付というかたちでお金を出しても、その先にあるものはなかなか見えてこない。
でも、PorchlightもSleepoverのパンフレットで強調しているように、大切な仲間と、楽しさの中でいつの間にかにそれを実感できる学びの機会にこんなかたちで出会えることは、その子の人生においてかけがえのない経験をつくるかもしれません。

日本の学校や、子ども会での宿泊活動のねらいは、どこにあるでしょうか。
小学校高学年から高校生にかけての多感な時期だからこそ、こんなかたちで、私たちの社会を少しずつ前に進めていくための経験を、宿泊活動の中にちょっぴり盛り込むのも意義深いかなと思います。





2.7.18

ゼミ その2: 25th Jun 2018(さとみ)

3年の片山です。
6/25のゼミでの15分せんせいの報告をさせていただきます。

今回の15分せんせいはみほ先生でした!
折り紙で手作りこまをつくりました。
3色の折り紙を自分で自由に選べるということで、一人ひとり個性のあるこまが出来上がりました。
工程が多かったり複雑なところもありましたが、教え合いながら進めていく様子も見られて、子どもたちがつくる時にもこんな風に教え合う姿が見られるのではないかなと思いました。
完成した後みんなでお互いのこまを見て「この色きれい」「折り方上手だね」など、それぞれのこまの良いところをたくさん見つけられました。
その後にテーブルの真ん中で回して遊んでみました。
せーので回してみたり、お互いのコマを当てて回してみたりと、みんなで一緒に遊べたのも楽しかったです!

みほ先生ありがとう!!






29.6.18

ゼミ: 25th Jun 2018(田中志歩)

先日のゼミは、発表を私ができる日でした。
2週間前頃から、何についてみんなで話し合えば面白いかなあ。
そんなことを考えながらレジュメを作成しました。
私の専門は国際教育開発で、研究テーマはバングラデシュの少数民族教育です。
だから、こういう研究の話を持っていったらみんなと、どんな話になるのかなあとワクワクドキドキしながら、発表しました。

今回のテーマは「学校の役割って何だろう?」にしました。

話し合った内容をまとめる前に、修士論文執筆のための研究で扱うバングラデシュの小規模少数民族のクミ民族について簡単に先に書きます。

クミ民族の人口は2999人(2017)。
少し古いデータですが2008年のCHTDF(Chittagong Hill Tracts Development Facility)の調査によるとクミ民族の非就学率は88%と、バングラデシュの少数民族の中で一番非就学率が高いです。

こんな、クミ民族の村に日本人が訪れると、よくこんな言葉をかけられる場面に遭遇します。
それは、「ここにいる子どもたちにとって学校っていらなくない?」「みんな幸せにくらしてるじゃん。」です。
これらの言葉を、耳にすると私は(ああ。また、でた。どうしようかなあ。)という困惑する気持ちと、学校に行くことが当たり前の環境として整っている日本で育った私たちが相手の生活を表面だけ見て、勝手にそんなこと言っちゃだめじゃないの。と、少々のいらだった感情があふれてしまいます。
でも、豊かな自然、自給自足の生活、大家族に親戚たち、おせっかいなぐらいかかわりを持とうとするご近所さんたち。今の日本の姿と比較して、その人的資源や人とのつながりの濃さに対する実態を目の当たりにすると、そんなコメントをする人の気持ちも分かるのが正直なところです。

しかし、バングラデシュは2007年に初等教育就学率が97%を達成していて、バングラデシュの大多数の人々にとっては学校に行くことが当たり前になっているのが現状です。それでも、やっぱりクミ民族の子どもたちには学校はいらないのでしょうか。

こんな疑問をずーっと抱えながら、答え探しの毎日を過ごし、学会発表の際にも、毎回のように「このような環境にいるクミ民族の教育の必要性とは?」という「そもそも」を考えさせられる問いが投げかけられ、なんて答えればいいのだろうか。
研究が進めば答えが出るものだろうか。と、思い悩んでいました。

発表しながらみんなどんなことを考えるんだろう。と考えていましたが、話し終わった後に、みんなが「子ども目線」でのコメントや質問をしてくれたことが私はとても印象的でした。

調査に行くと先生や親といった「大人」と私は話しがちです。
子どもは、見ていてかわいいけど、インタビューをしてみても、言ってることは分かるのだけど意味が取れなかったり、些細なことが返答として帰ってくることが多いので、どうしても、避けてしまいがちにしてしまっている自分に気づかされました。

それでも、やっぱり、幼児研究科のみんなの視点は難しくても「子ども」なのだなあということが分かって、夏の訪問の際には「子ども目線」を1日1回はできるようにしたいと思いました。

また、みんなの質問や、松本先生からの話の中で
「ここじゃない場所を見せることのできるツールとしての学校や教育」という言葉がしっくりきました。
クミ民族の人々が、教育を受容する中でどのような変容が起きているのか、そして、起きてくるのかをつぶさに調査していきたいです。

そして、これから修論までに、クミの村と同じような状況に昔あって今は学校に行くことが当たり前とされているケース(バングラデシュの大多数のベンガル人の村など)が、どのように学校教育が入ってきたことで変容してきたのかを調べてみたいと思いました。

写真は、クミの村にある公立小学校(バングラデシュの小学校は1~5年生)の様子です。
小学1年生から3年生の児童が同じ教室で勉強しています。(4・5年生が一緒の教室)
まだ、ベンガル語を話すのがちょっと恥ずかしいようで、話しかけると、ぴゅーっと、逃げて行かれてしまうこともしばしば。
また、みんなに夏に合えるのが楽しみです!


27.6.18

Three months(松本)

今日でちょうど3ヶ月。ということは、在外研究機関の1/4が過ぎたことになります。
-term 0: とにかくみんなで生活の立ち上げ……半月と少し
-term 1: 研究所での仕事&子どもたちの学校生活の立ち上げ、旧年度からの持ち越し仕事の続き、学生に研究指導……半月と少し
-term 2: 再審査論文の修正、研究発表の下準備、Skypeゼミの立ち上げ……1ヶ月と少し
-term 3: 研究発表×3、保育施設&学校訪問、研究計画の練り直し、学会参加……今ここ 2週間経過:残り1ヶ月ほど
という感じで歩んできました。ここを越えると、夏休みになります。
英語での仕事や手続きは、日本語よりちょっぴり余計な時間がかかること、合間に定期的にこちらの会議やゼミ、日本の仕事をはさんでいること等もあるからか、率直に言ってがっつり何かが進んだ手応えを感じられているわけではないのですが、これまでとは違う時間の使い方ができていることは確かです。日本で支えてくれている仲間に感謝しながら、残りの3/4の時間を大切に過ごしたいと思います。

自分の仕事を進めたり、子どもたちの学校のエピソードを聞きつつ、このところ考えさせられているのは、こちらの社会の中では「そのヒトなりに歩もうとしている姿を尊重する」ことについて、その多少はあれど、人々の間でのなんとなくの合意や、それを支える制度設計が担保されているのでは、という点です。
学校しかり、その他の場での出来事しかり。そんな場面で、私たち日本の社会では「そのヒトの行動は善なのか、悪なのか?」という観点で議論されることがあまりに多い気がするのですが、こちらの社会では、もしそれが問題になるとすれば、むしろ「歩もうとしているそのヒトの行動を妨げたり、足を引っ張る権利が他者(である‘あなた’)にあるか?」というかたちで論じられそうな気がします。
学校等での子どもたちの行動、子育てのスタイル、恋愛や結婚、家族のかたち等々、多様なトピックが思い浮かびますが、こういった問いの立て方は、日本社会では少ない気がするのですが、どうでしょうか。「公共」を問いかける宛先の問題というか。。。
人権観や、尊厳ということと関わっているように感じますが、まだ自分の中であまり練れていないので、今しばらく時間を使って考えていきたいと思っています。

そのヒトなりに歩んだ結果が、うまくいかないことは多々あるでしょう。しかし仮にそうだとしても、萎縮せずに励まされた履歴が残ることは、次の工夫と挑戦の可能性をふくらませることも、また確かなことかなと思うのです。






22.6.18

ゼミ その2: 18th Jun 2018(みほ)

失礼します。
松本ゼミ3年のみほです。

6/18のゼミの報告をさせていただきます。
今回の15分せんせいはなるみ先生でした!
子どものアレルギー対策まで考えられた米粉粘土を作ってきてくれました。ピンクと黄色の2色の粘土から、それぞれが思い思いに遊びを楽しみました。

感触は普通の粘土や小麦粉粘土に比べると、少しパサパサしていてちぎれやすいなあと感じましたが、子どもたちはきっとちぎるだけや丸めるだけ、触るだけで楽しんでくれると思います。私も自分が昨年の保育実習で1歳児にした時のことを思い出して懐かしくなりました。

米粉粘土は上新粉と水と油と食紅から作られているので、口に入れても危なくありません。ということで、吉川先生が持ち帰って実際に茹でてみて下さいました。やはりお団子と同じようにもちもちになったそうで、粘土としてだけでなく茹でた後まで楽しめるのがいいなあと思いました。
1口かじってみたけど味がなかった〜と教えてくれた吉川先生のおちゃめなところに思わず笑顔になれました。

みんなで楽しむことができました。
なるみ先生おつかれさま!ありがとう!!






20.6.18

ゼミ: 18th Jun 2018(山地)

修士課程幼児教育研究室の山地です。

 今回は『レッジョ・エミリアの教育学-幼児の100の言葉を育む-[秋田喜代美,2003,佐藤学・今井康雄(編)『子どもたちの想像力を育む:アート教育の思想と実践』東京大学出版会 pp.73-92]』を用いて、みんなで議論しました。文献の中で登場したレッジョ・エミリアの実践や子どもの様子などについて、みんなが“素敵だなあ”“おもしろい!”と感じていたようでした。このように感じることができたレッジョ・エミリアの実践から自分たちは何を学べるのか、さらに日本の保育現場との違いは何なのかといった二点が議論の中心にありました。

 中でも、私がここで紹介したいと考えたのは、子どもの表現の経験を保育者がどのように支えるのかということです。レッジョ・エミリアの実践における子どもの表現の経験は、子どもの生活に根差したものから出発します。時には同じテーマの活動が数か月間も続くことがあるそうです。これは、表現活動の主体となる子どもの興味・関心から発信される“過程”としての経験です。レッジョ・エミリアの保育者は子どもの表現のきれいな完成(ゴール)を目指しているのではありません。子どもの表現の経験に耳を傾け、丁寧に意味を与えながら表現が成熟されるまでの過程に重きを置いています。

 そこで、日本の保育現場の実践における子どもの表現の経験について考えてみました。すると、レッジョ・エミリアのような子ども発信というよりは、保育者が子どもに表現活動の機会を与えているのでは、という意見が出ました。さらに、この機会はレッジョ・エミリアのような“過程”としての経験ではなく“単発的な”経験かもしれない、という意見も出ました。もちろん、日本の保育者も子どもの生活や興味・関心から表現活動のテーマを作ることはあります。しかし、レッジョ・エミリアの実践と決定的に異なるのは、保育者はあらかじめその活動における子どもの表現に見通しを持ち、その表現の完成に至るまでの道筋を明確に持っているという点です。

 また、レッジョ・エミリアの表現活動では、五感を“繋げる”もの、つまり表現活動の過程における様々な経験が繋がり合い、子どもの様々な感覚が相互に繋がりを持つことが特徴なのではという意見も出ました。一方、日本の保育ではレッジョ・エミリアのような活動の繋がりを持っているのか、活動ごとの繋がりをどのように捉えているのかというような、全体としての教育課程を改めて考えるきっかけにもなりました。

 子どもにとって表現とはどのような価値を持つのか。また、何のための表現活動なのか。そして、その表現活動に保育者が何を見出すのか。素材の特性を知るため?道具の使い方を学ぶため?身の回りの生活に興味を持つため?…

 日々の生活を子どもと共にする保育者だからこそ支えることができる子どもの表現活動について、深く考えさせられ、これからも考え続ける価値のあるテーマを今回の議論から得ることができました。


※写真は本文と関係ありません

14.6.18

ゼミ その2: 11th Jun 2018(みほ)

失礼します。
松本ゼミ3年のみほです。

6/11のゼミの報告をさせていただきます。
この日の15分せんせいは、さとみ先生でした。乳児を対象にしたかたつむりの製作を考えてきてくれて、みんなで殻や身体に模様をクレヨンで描いたり丸シールで貼ったりして、それぞれのかたつむりを完成させました。
好きな色の画用紙を選び、自分の思い思いに描いたり貼ったりできる活動は、きっと小さな子どもたちは大好きなの夢中になるだろうなあと思いました。ゼミのみなさんも一人一人違った工夫が見られて、自分だけの素敵なかたつむりができていました。今の季節にぴったりで、今回もゼミ室の窓に飾りました。並ぶとより一層かわいくて癒されます。

さとみ先生ありがとう!

また、この日は教研の院生である田中さんも来てくれていたので、いつもとは違った話もしながら楽しむことができました。田中さんの私たちにはない視点から考えた話やアイディアはとても参考になり、良い刺激になりました。ありがとうございました。





13.6.18

ゼミ: 11th Jun 2018(田中志歩)

 今日は、初めての松本ゼミ参加。少しの緊張感がありましたが、15分せんせいのかたつむりづくりの時間によって和やかな雰囲気でのゼミとなりました。
かたつむりまた作りたいなあ。

 松本先生がSkype参加をしたところで、本日は『レッジョ・エミリアやニュージーランドの保育者には「子ども」がどのように見えているのだろうか [大宮勇雄, 2007, 現代と保育(ひとなる書房)69, 6-37] 』を用いての議論を始めました。
 私は専門が国際なので、畑の異なる幼児研究者たちの意見は新鮮なものが多く、今まで学会などで経験したものとは異なる視点からの文献への切り口に最初は圧倒されながら、徐々に(?)意見を交わすことができたのかなあと思います。

 昨日の議論の中で主に話し合われた内容は「子どもを肯定的に見るとは」という点でした。
「肯定的に見る」ことは、はじめ、私はこのフレーズが分かるようでわからない。
そもそも、肯定的って何だろう。そんな?(はてな)が頭の中でいっぱいだったけど
みんなで、話をしている中で、保育者や大人が子どもの行動のみを見るのではなく、その子がどういった気持ちでその行動をする。評価をするのは、できた・できないの短絡的なものではなく、そのプロセスも含める。等の考えをシェアすることができました。

 私は、ゼミが終わってから、もう一回「肯定的」について考えてみたら
「寛容的」であることが人と関わるうえで重要なのではないかなあと。
 いろんなことに、答えはないし、答えはいっぱいあるけど
 いろんな問いに対して、自分なりの考えで、自分なりの答えを持って
 いろんな問いに当たっていけばいいのかなあと。
 そんなことを考えさせられた初めてのゼミでした。

 先生のおうちのお庭の、バラがたくさん咲いていてきれいでした。
 日本は紫陽花と菖蒲が雨粒にぬれて柔らかな雰囲気を醸し出す季節となりました。
 写真は、近所の紫陽花です。いろんな色が咲いててうれしいなあ。






11.6.18

ことばの問題(松本)

こちらに来て2ヶ月半。
ここしばらく、話す力の低下を強く感じるようになりました。
主観的には「まあまあダメ」だったのが「すごくダメ」になった感じがしています。
ダメさに磨きがかかるのも困ったものです。

理由はいくつかあると思うのですが、その一つは、ここしばらく、とある論文の修正にかなりの時間を割いていたことです。
私の場合は、母語は日本語、これまで通っていた教育機関も全て日本なので、ある水準までの論理的なツメは日本語で進めていきます。最終的な表現型が英語の場合、そこに多少の英語のフレーズが混じることはあっても、論理の柱は間違いなく日本語です。
自然科学を中心に、数値が表現の中心の場合、論理の柱の言語は数式や数字!ということもあると思うのですが、文化や歴史の問題が絡む社会科学の場合、なかなかそうはいかない気がします。
つまり、論文をまとめたり、それに伴う論理的な思考を進めているときは、たとえそれが表面的には英語であっても、実際のアタマの中では日本語で作業している、ということになるわけです。
しかも、そういう作業をしてるときは当然ですが、同僚との会話も少なくなる。
毎日の学校生活から、次々に吸収していく子どもたちや、語学学校に通い始めた妻に比べて、圧倒的に経験が足りなくなるというわけです。あれまあ。

マイナス面だけでは哀しいので、ことばに関して、逆に、この2ヶ月半でややましになったというプラスの面を頑張って探してみると。。。

1) 英文メールを書くのが早くなった
 これは間違いなく、仕事関係はもちろん、学校や生活面での各種手続き(問い合わせや苦情含む)で、やたらめったらメールを書きまくったせいです。よく言われる、イギリスの不便さのおかげかもしれません。。。電話の時代だったらどうなっていただろう。。。

2) 聞き取り力がちょっぴり上がった
 こちらに来た時点では、研究ほか仕事に関することは、7割わかる(=3割わからん)という感じだったのが、ほんの少しましになったかな、と思います(8:2くらい+いくつかの聞き取り間違い、というのが最近のパターン)。
 日常会話は、その逆に8割わからん!でスタートしたのが、ほんの少しましになってわからんのが7割くらいに。(ましといえるのかどうか。。。)
 しかし、研究にせよ日常会話にせよ、意識して聞こうとしないと、なんだかよくわからないことには変わらない。特に、同僚同士の頭上を飛び交う日常会話については???のことが大半です。。。

3) 速読傾向が強まった
 これは、↑にも書いたようなメールのやりとりや、仕事の中身もこちらに来て意識的に英語のものを増やしているので、まぁそうかなあと思います。速読すればするほど、読み間違いも増えますが(これは日本語も同じですね)。

こんな現状です。
こうやって改めて書いてみると、どれも自分なりには合理的というか、納得のいく理由があるなと思います。
ということは、やっぱり語学の上達には近道や魔法はなくて、これまで積み重ねてきたみちすじと、わりにシンプルに直結すると考えてよいのかもしれません。

ことばの中でも、特に語彙の問題は、過ごしてきた文脈と密接に関係していくはずです。
時折聞くように、1年間海外で過ごせば、その国のことばがペラペラになる!はずはなくて、それが思春期であれば、思春期に特有の語彙が増える、学生時代であれば、学業や学生生活の、専門分野に関わる学会であれば、そのやりとりに使われる語彙が増える……ということになるのでしょう。
もちろん個人差はあると思うのですが。

考えてみれば、今の状況は、イギリス人同士の日常会話を聞いて、自分の言葉をそこに重ねていく経験がほぼなかったこれまでの人生を振り返ると、当然の結果ですね。
これまで、短期訪問のときは語学に関してはたいてい諦めて、しゃべれる人より面白い人だと思われよう戦法!で突破してきたのですが、長期滞在となるとそうはいきません。

こちらに来て以来、日常会話では「一言余計に話そう!」を心がけてきました。
でも、どうもそれだけでは足りない。このギャップを埋めるパーツをどこに探しにいくか。
ひとりでパブへ飲み歩くわけにもいかないので、できることを考えて、残りの時間でまだまだ諦めずに、家族と一緒にチャレンジしてみたいと思います。
結果は、またいずれ。。。

1枚目の写真、樹上に白いリスを見つけました。
2枚目は夜9時すぎ。ようやく夕闇が見えてきた時間です。






4.6.18

ゼミ: 28th May 2018(なるみ)

先日のゼミでの15分せんせいの報告をさせていただきます。

5/28のゼミのせんせいはみほ先生でした!
ビニール袋にお花紙を詰めてカラフルてるてるぼうずを作りました。色とりどりのお花紙や丸シールがあって未満児さんにとって視覚的にも楽しめるし、お花紙を丸めて袋の中に詰めたり、丸シールを貼ったりすることでも楽しさを味わえる製作だなと思いました。みなさんシールの貼り方やお花紙の詰め方を工夫して自分なりのかわいいてるてるぼうずを作っていました!ゼミ室の窓の上に吊るしているのでこれで梅雨も乗り切れそうです!
みほ先生ありがとう!


28.5.18

Canterbury Arts Conference 2018(松本)

Canterbury Christ Church Universityの同僚の先生を介してご縁があり、研究のサブテーマの一つとして取り組んでいるアートと保育について、ちょうど、ここCanterburyにて開催される会議にて話をさせていただくことになりました。概要は以下になります。
http://www.cartscon.com/speakers/

少し前のものになりますが、4年ほど前に、香川県立ミュージアムにて、関係者のみなさんと力を合わせてつくった「小さなこどもの観覧日」の取り組みについて報告してくることにしました。
鑑賞の場に連れて行かれるのではなく。幼児が作品を「鑑賞したくなる」とき、そこに何が起きているのか。
それぞれ、文化的背景も専門も異なる場で、どんなことを共有できるかを楽しみにしながら、当日に臨みたいと思います。終了後にまた報告しますね。

20.5.18

Good girl! (松本)

学校編第3弾は、小学校編のPart 2。
一連のシリーズ?をしめくくるのは、三女のエピソードです。
日本で小1を終えた7月生まれの彼女は、同学年で最も年少の一人として、Primari School(小学校)のYear3に編入されました。
小学校は、徒歩30分ほどの、定員に空きがあった公立学校です。
検定教科書があるわけではないので、教育の中身はかなり各校・クラス毎の個性があります。

渡英時の彼女の英語力は、一言でいうと「ダメだこりゃ」のレヴェル(ごめん)。
ハロー、サンキューの他は、ABCすら怪しい……。
同年齢で比べても、英語教室に通っているなど、英語教育に熱心な家庭の子はもちろん、英語に少しでも関心がある子の方が、間違いなく彼女の英語力を上回るはずです。

英語はダメでも、数ならばユニバーサル。算数はきっと大丈夫かな、と思いきや、学校でやっているのはかけ算(日本なら2年生で履修)を通り越して、割り算。
残念なことに、これも全くわからない……。

にもかかわらず、憧れの革靴を履いて元気に通い始めた彼女は、親切なクラスメートや先生のおかげもあってか、何の戸惑いもためらいもなく、ある意味で同じ学校に通う姉以上に、あっという間にクラスと学校生活に馴染んでいきました。
学校に出かけた2日目。「大ニュース!隣のクラスに(お母さんが)日本人の子がいた!」と教えてくれました。一緒にゴハンを食べたというので、よかったね、その子が誘ってくれたのかな?と聞いてみたら「うううん。(私がその子を)みんなと一緒にたべよう、とさそって、一緒にご飯食べてあげた!」とのこと……。ん!?
……。
おぬし、なかなかたくましいのう。

既に、授業中でも挙手して何度か発言しているようです。
(本人いわく「わかったから、あげてみた」とのこと……。)

家では、「ねえねえ『みんなオッケー。レッツゴー!』ってエイゴでなんて言うの?」等々、とぼけた質問を連発している彼女。
学校のあれこれをよく見ていて、しっかり教えてくれます。
最近のクラス集会に向けての練習の様子を聞くと「日本だと、はい、姿勢を正してお山座りをして、しっかり声出して、って感じでしょう? こっちだと全然違う。先生、(子どもが)何かしたら、かならず  "Good! good! good!" "Good girl! Good boy!" って。」
だそうです。
そうか。なーるほど。

そんな彼女は、学校に行き始めて4週間足らずで、少しずつ会話の中に自然に英語のフレーズが混じりはじめました。
とはいえ、何か言われて"Ok" もっとほしいときに"One more" 相づちに"Yeah"といった程度ですが。。。
______

このように三者三様ではありながら、ありがたいことにどの子も、大人の心配をよそに、今のところ現地校での生活の中にあっさり溶け込んでいくことができました。
では、何がそうさせたのか。
学校の雰囲気や友だちとの相性、本人たちのいい加減な?性格はもちろんあるのでしょうが、それだけではない、考えられる理由があるように思います。

幸いなことに、私の研究テーマ(Early literacy)にも深く関わる部分ですので、また近いうちに踏み込んで書いてみますね。





13.5.18

教わる・教える(松本)

あれこれ取り組んでいるうちに、あっという間に週末に。
前回の中学生編に続いて、今回は小学生編その1を書いてみます。

小学校(Primary school)は6年生まで。始まりは9月です。
日本で3年生を終えた次女は、いきなり5年生に。
4-8月生まれの子にとっては、学年の数字は1年半早く始まる、ということになります。

次女の英語力は、アルファベットは書ける、簡単な挨拶と、apple!のような日本でもなじみのある単語をちょっぴり知っている、という程度。日本では3年生でローマ字学習を終えるので、学年相応、という感じです。
まずは可愛い制服と靴にテンションが上がり(ちなみに、制服はそのへんのスーパーに売っています。日本に比べてとても安価!)、元気に通い始めました。
語学力を思えば、どう考えても学校ではわからないことばかりのはずですが、先生や友達の話すことばは「わからないけど、わかる」とのこと。なんか深い。。。

そんな彼女のクラスで、最近流行り始めているのは日本語。
お母さんが日本人の隣のクラスの友だちと、彼女の2人が先生役として、クラスのみんなに日本語を教える機会を担任の先生が作ってくれたそうです。
初日のクラス見学の折には、私たちの顔を見て「你好」と挨拶してくれた子どもたちも、すっかり「コニチワ」と言えるようになってきました。もちろん、担任の先生も一人の生徒として。

その週末、次女は嬉しそうに優勝カップを持って帰ってきました。
聞けば、その週、学年で一番頑張った子どもとして表彰された、と言います。
ところが、何で表彰されたのかは、本人もよくわからず。。。
友達と毎日Monky bars(=うんてい)を、マメをつくるほど楽しんでいたことは確かですが、通常の授業は???なのに。。。
日本にいるときから、なぜかトロフィーに異様に憧れを抱いていた本人は、思わぬ出来事にテンションがまた一気に上がったようです。

みんなに日本語を教えたことと表彰の関係は、まだ、先生に直接話を聞く機会を持てていないのでよくわかりません。
いずれにせよ、学校生活の中で手を引かれ、導かれる機会が多くならざるを得なかった彼女が、教える立場にまわれたことの意味は、その時間はもちろん、学校生活全般に大きく影響したのではないかと想像します。

見つめられ、先回りされ、手を引かれる側から、相手を見つめて、先回りして手を引く側へ。
私たちは、特別な配慮を必要とする子どもに対し、その子の生活や学びを支えるような援助だけでなく、その子自身が他者を支えたい願いを実現する機会を提供できているか。

まだ言葉にはできない願いが汲み取られ、みんなに教える機会が整えられたこと、その姿がみんなに認めたられたことは、彼女にとっても、まわりのみんなにとっても、一つの転機になったのかもしれません。



6.5.18

Beyond expectation(松本)

子どもたちが学校に行き始めて、ちょうど2週間。
こちらの学校は、公立でも学区制ではなく、選択制なので自分で探す必要があります。
定員を上回っていれば入学を許可してくれないこと、渡英してまもなくイースター休暇に入ったこともあり、巡り会うまでに少し時間がかかりましたが、無事見つかって一安心です。
それぞれの学校の様子について、大きい順に書きたいと思います。

長女は、7年生として中学校(Secondary school)へ。
少し離れている場所へ、徒歩とバスで通います。
Secondary schoolにはいくつかの種類がありますが、基本的には中学と高校は一緒で、7年生から13年生までは同じ学校に通うことになります。
公設の中学校は、試験を受けて入るGrammer Schoolと、無試験で入れるState Schoolの2種類があり、当然ですが彼女の学校は後者になります。
ルーツや家庭等、さまざまな子がおり、何というか少しがっちゃりした!?雰囲気です。

学校の雰囲気は、高校のよう。子どもたちはHouseという異年齢クラスに所属しますが、授業は学年毎に、それぞれ専門の教室を訪れて受けることになります。ロッカーはないので、基本荷物を持ち歩いて移動します。食堂ももちろんあります。
スマートフォンはむしろ、生徒が学校からの連絡等を受けるアイテムとして有意義に活用されているようです。(もちろん、持っていない子どももいるようですが)

長女の英語力は、日本で教育を受けた年齢相応。
思春期に入り、言いたいことも言えないのでは、プラス一人で通わねばということで、始まる前は最も心配していたのですが、今のところ毎日とても楽しく通っているようで一安心。
学校で(先生も含め)みんなお菓子を食べまくっている!とか、クラスマッチ?の表彰式が音楽も盛大にかけて、生徒も先生も盛り上がってすごい!とか、金曜日の盛り上がりが異常!とか(週末に塾や部活に追われないから!?)、日々発見があるとのこと。
学校で唯一の日本人ですが、名前を覚えきれないみんなも含め、たくさんの仲間が声をかけてくれる環境を楽しんでいるようです。

そのように、日本と違う環境に強く印象を受けながらも、実は最初に彼女が話していたのは、いろいろな子どもがいる学校でのみんなの雰囲気が、自分の小学校に似ていて安心した!ということでした。
これまでの保育園、小学校、そしてときどき大学に出入りする生活で、さまざまな人に出会ってこられたのが活きているのか。。。

Beyoud expectation.
子どもは大人の予想を容易に越えていく存在であることを、改めて子どもから教えてもらう毎日です。




29.4.18

大学にて(松本)

Canterburyに引っ越してきて、はや1ヶ月。
大学での活動が本格的に始まって、2週間が経ちました。
最初の1週間では、職場環境を整えながら、いろいろな人に会ったり、会議に出たり。
2週目はちょこちょこ人に会ったりする合間に、日本の仕事の〆切がまとめて来たり、子どもたちの学校の準備や手続きをしたりで今に至ります。

今の所属はResearch Centre for Children, Families and Communitiesという研究所なので、数人の大学院生をのぞいて基本的に学生はいません。考えてみれば、仕事を始めて17年目で研究所に所属するのは初めて。イギリスの大学で会議に出たりするのももちろん初めて!
あれこれ新鮮すぎる中で、印象に残ったことは多々あるのですが、この間で特によい経験になったのは、出会った中の一人の先生とのご縁で、教育学部のPost Graduate(制度上は大学院ですが、基本的には4年生)の授業に飛び入りする機会を得たことです。

30人ほどの学生が履修しているその授業では、それぞれがこれから実践現場で行う研究計画をまとめながら、倫理上の配慮点について書く、という課題が出ていました。なぜだか流れ上、ちょこちょこ論文指導っぽく脇からコメントしつつ見せてもらった彼女たちの研究計画は……

・図書館を介した読み聞かせ(Book sharing)への働きかけとと親子のやりとりの質の変化
・わらべ歌(Nursery rhymes)とSocial relationshipsの発達
・保育園内のコーナーを活用した、自分の気持ちに関する表現力を豊かにする取り組み
・ままごと遊びと社会性の発達

等々、日本の4年生たちが考えるものと、思った以上に興味関心も枠組みもわりによく似ている!というのがなかなか新鮮でした。

こちらの大学のシステムは、日本とはかなり異なります。
教育学部の場合、Undergraduate(学部生)は、いわゆる高校からまっすぐ上がってくるコースと、保育現場などで社会人経験を積んだ後に入るコースに分かれていて、Foundation Degreeという基礎課程が2年(年数を考えると短大相当?)、その後にBachelorという学士課程が1年、その上にPost Graduateとなっているようです。
現場で気づいたことを、自分の課題意識に合わせたコースでの学びや研究課題として深め、キャリアアップして再び現場に戻っていける制度はなかなか魅力的です。日本で自分がしてきた仕事を振り返ると、保育者研修や現場での実践研究がそれに相当するのでしょうが、職場を離れずに学ぶことと、大学等で一度職場から離れて学び合うことでは、深められる程度と蓄積の度合いが変わってくるように感じました。日本でこれまで一緒に学んできたみなさんと、こんな機会が持てたらきっと面白いと思います!

また、担当の教員は、これらそれぞれの課程で分かれているようです。日本で大学1年から修士まで授業をもっている身からすると、これまた別の意味で新鮮でした。
とはいえイギリスは、たとえば就学前施設や小学校でも、施設・学校毎に雰囲気や教育内容、学び方にかなり幅があります。大学でも同じように、大学毎にいろいろシステムは異なるのかもしれません。

違う環境に出かけているので異なる点が多いのは当たり前なのですが、この二週間で意外にも、共通する点や課題がたくさん見つけられたことは大きな収穫でした。
帰ってからのことを考えるのはまだ早い!ですが、こちらの大学の同僚も、研究のこと、学生のこと、大学運営のこと等、同じようなことに悩み、頑張っている……と考えると、帰ってからもなんだか少し元気が出そうです。



13.4.18

ことばをかけ合う(松本)

Canterburyに住み始めて、半月ほどが経ちました。
生活の基盤を一つずつ整えながらこちらでやりとりするなかで、いくつか気付かされたことがあります。

一つめは、年配者(特に女性)や子ども連れ、障がいをもつ人たちに対するさり気ない配慮をよく見ることです。例えば道のすれ違いで足を止めて待つ、交通機関の座席を譲る、荷物運びなどでさっと手を差し伸べるなど。私は一度おばあさんに軽く注意されて(恥ずかしい&ありがたい!)すっかりその習慣が身につくようになりました。
もちろん、そうでない人もいます。でも譲ったときには、相手はほぼ、笑顔と言葉で返してくれます。

二つめは、互いに声をかけ合う場面がとても多いこと。特に我が家の子どもたちは、生活の中のいたるところで話しかけられることが、日本に比べてすごく新鮮であるようです。
子どもに限らず、大人に対しても、お店、バス、郵便等の配達、その他生活の中のあらゆる場面で、あいさつプラス一言やり取りすることが、明らかに日本にいるときより多いと感じます。

三つめは、英語以外の言葉に慣れていること。
例えば私の名前 ‘Hiroo’ は、アメリカ人には「ヒルー」と発音されることが多かった気がします。(そう、‘school’ と同じ発音ということです。)
でも、こちらに来てからは、きちんと読んで(読もうとして)もらえることがほとんどです。
EU圏はビザなしで移動できることで、互いに母語が異なるのはよくあること(例えばスウェーデン語の名前を発音するのは難しい!)、また自民族の言葉が実質的な世界共通語となりながらも、それは実際には他国(アメリカ)で独自に進化した少し違う言葉であること等が影響しているのかもしれないと思います。


譲ること、言葉をかけ合うことは、その中身自体の意味ももちろんあると思うのですが、「あなたと私は敵対していませんよ」というメタメッセージを含んだものとなります。

立ち居振る舞いが基本的によく似た人で構成されるコミュニティ(日本の多く)では、声をかけ合わずとも、互いに分かり合える(気がする)、という前提でコトを進めることが可能なのかもしれません。

いっぽう、多様な出自と習慣をもつ人が含まれているコミュニティでは、相手にはっきり声をかけること、わかりやすい態度で意思を表すこと、何より互いをわかり合おうとすることは、日々の生活を安心して送る中で不可欠なことなのでしょう。

幼児期からの、言葉で自分らしく表現することへの価値づけと、それが十分でない人に対する尊重の態度が大事にされていることは、これらとつながっているかもしれません。

まだこちらに来たばかり。

日本でも東京が特殊であるように、Londonのような大都会と、地方では異なることも多いだろうと思います。引き続き考えていきたいと思います。