月曜日, 8月 31, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿 完結編『「子どもの世界」を社会全体で守るために―家族主義をどう乗り越えるか』(山﨑)

 こんにちは。松本ゼミ3年の山﨑です。

 今回は、終章 小西祐馬『「子どもの世界」を社会全体で守るために―家族主義をどう乗り越えるか』を読みました。この本をみんなで読みながらこれまでいろいろなことを考えてきましたが、ついに最後の章にきました!一人では分厚くて読むのが難しそうな本でもみんなで読めばあっという間で「みんなで一緒に」の力はすごいなと思います。

 私はこの章を読み「時間の貧困」というものに着目しました。時間の貧困は金銭的な貧困よりも見えにくいなと感じます。時間のなさは心の余裕を奪い、子どもが「遊び」に夢中になれるゆとりも奪ってしまう、重大な問題なのになぜあまり取り上げられていないのかを考えながら議論を進めていきました。本章で出てきたニューヨークタイムズの記事で取り上げられていたニシマサさんの一日はとても多忙に見えました。仕事や家事に加えて、子どもの送迎や宿題を見たり、保育所の持ち帰り仕事などやることは山積みです。私はこのニシマサさんの日々のスケジュールを見て「大変そうだな…想像しただけで疲れるかもしれない…」と思ってしまいましたが、みんなでニシマサさんの記事について話をしているときに「でもニシマサさんはこれを大変だと思ってるのかな?」という意見が出てきました。記事の中にニシマサさんはどう思っているかは一切書かれていません。きっとニシマサさんはこの生活を淡々とこなしているのだろうなと思いました。ここから私が思ったのは、時間の貧困の中にいる当の本人が、それが問題だと気付いていないことが問題だということです。誰かがそれは当たり前ではないよと言わないと気付くことができない、時間の貧困問題は根が深いなと感じました。

 日本の家族主義やジェンダー平等、女性の権利の保障など解決するにはいろいろなことを一つずつ変えていかなければならないことが分かりましたが、私たちにできることは限られています。私たちがこれからできることはなんなのかみんなで考えました。保育者として子どもの遊びを保証していくために、8章の「きんしゃいきゃんぱす」で出てきた領域のグラデーションを保育室で実践してみたらどうかな。保育所のお迎えの時間に、家に帰ってごはんの用意をしないといけないけど、ちょっとおしゃべりしてほっとできるような場所に保育所がなれたらいいね。子どもが保育所でいっぱい遊んで、満足して機嫌よく帰ってくることが親の心の余裕につながり、そこから時間の余裕が生まれるかもしれないね。小さなことだけど私たちにできることはたくさんあるんだなと思いました。これからも自分にできることは何か考え、小さいことから変えていこうという姿勢を大切にしていきたいです。

 ゼミでこの本を読み、考えたことについて話し合う中で自分以外の人の考えに触れ、たくさん刺激をもらいました。本がきっかけとなりいろんなことを話せるんだなと感じました。普段の生活や授業でゼミで話した内容が出てくると、3年の3人で「これゼミで出てきたことだよね!」「ゼミで話したことってこういうことだったんだ!」と話せたこともとても嬉しかったです。ここでみんなで考えたことを活かしてまたいろいろなことを考えていきたいなと思います!






日曜日, 8月 30, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『子育ての分断と連続』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ3年の髙橋です。今回は、岩田美香「子育ての分断と連続」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, p.270-286]を読みました。


 この章は親の育児不安を中心として子育てについて書かれており、私は「育児不安」と「他者との比較」に着目しました。

 近年では核家族化によって育児機能が家族に集中し、親は多様な育児資源や育児機会を取捨選択して子どもに届ける役割を担っています。そのため、わが子の育ちは自分の選択によって決まるかもしれないと責任を感じる親も少なくないでしょう。それを感じやすいのが「他者と比較」する場面だと思います。比較した結果、他者との差を感じて悩みや不安を抱き、その差が自分の選択の責任だと感じてさらに悩みや不安が増幅していくのではないかと考えます。


 みんなの感想を聞く中で、他者と比較する場面は私たちの生活に沢山存在しているのだと感じました。育児資源や育児機会を利用していく中で知らないうちに他者と競争させられていたり、SNS上でパッと偶然目に入ってきた情報によって他者と比較してしまったりすることもあります。家族の外部とつながればつながるほど得られる情報が多くなったり人との関わりが生まれたりしますが、外部を知る分他者と比較する(比較してしまう、比較せざるを得ない)場面に多く直面するのだと思いました。


 「他者との比較」によって「育児不安」になることもあるのだと知り、保護者の育児不安を少しでも軽減するために保育者の関わり方において何を心がけるべきか話し合いました。ものさしの多様化、子どものできていること(今)を伝える、何に不安を感じているのかを知る、話せる雰囲気づくり、保護者を認める、重く受け止めすぎずに聴く、と沢山の心がけるべきことが挙がりました。これらの共通点を考えると、“安心”。子どもの安心と同じように保護者の安心をも確保することが大切だと思います。保護者にもしっかり目を向けることの重要性をとても感じました。


 この本を通して、今まで知らなかったことや今まで何となく疑問に感じていたことを学ぶことができ、自分の世界が広がったように感じます。読みながら自分の経験と結びつけて考えたり、将来こんな風になりたいと思い描いたりして、過去のことも未来のことも考え深められて楽しかったです。この本が出会わせてくれた新たな興味や疑問をこれからも考え続けていこうと思います。




金曜日, 8月 28, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『子どもの健康と貧困』(髙谷)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙谷です。

 今回は、佐藤洋一「子どもの健康と貧困」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019,明石書店,p249-267]を読みました。


 この章では、貧困と健康の関係を医療現場でみられる事例を基に示されていました。貧困は一時的影響だけでなく、慢性的に健康に悪影響を及ぼす可能性があることが分かりました。


 本章から、二つのことについて考えました。一つ目は、貧困のつながり・連鎖についてです。貧困は健康面、経済面などに悪影響をもたらし、それに伴い精神面や人間関係などにも影響が出てくる場合があります。このような一時的に広がっていく影響を貧困の横のつながりと捉えました。次に、本章で取り上げられていたような慢性的な影響によって、貧困が親から子どもへと連鎖していくことがあります。これを貧困の縦のつながりと捉えました。横のつながりは図で示せるような単純なものではなく、貧困から健康面や精神面に影響が出る場合もあれば、健康面や精神面の不調が貧困につながるというケースもあります。縦のつながりは順序性こそありますが、「不健康な人が必ずしも貧困である」という文が成り立たないように、縦のつながりは可能性の問題であり、統計的にはつながる可能性が高くても、絶対ではないというところが注意するべき点だと考えました。


 二つ目は、貧困のとらえ方についてです。「医療現場では問題行動にばかりに目が行きがちで、その背景にある貧困に気づきにくい。」(p.253)これは、保育現場でもよく言われることだと思います。背景に挙げられるものは貧困だけでなく、発達障害や家庭環境など様々ですが、問題行動は見えても背景が見えていない場面は多くあるのではないかと思います。一方で、子どもの背景を知り、貧困であると分かった時、問題行動のすべてを貧困が原因であるととらえてしまうことは、また違った問題へとつながるのではないかと考えました。「貧困家庭の子どもだから、、、」というような貧困のフィルターで子どもを見てしまうと、子どもとの関わり方が良くも悪くも変わってくると思います。

 それでは、貧困をどう捉えていけばいいのでしょうか。話し合う中でとても府に落ちた意見がありました。それは、貧困をその子の特徴の1つとして捉える考え方です。身長が高い、低い、運動が好き、絵を描くのが得意など、人はそれぞれ異なる特徴を持っています。貧困もその特徴の1つとしてとらえるのです。特別支援の考え方として、全員に同じ支援をするのではなく、必要な人に必要な支援を行い、その結果として、同じようなことができるのであれば、それは贔屓ではなく、適切な支援であるという考え方があります。貧困という特徴があるとき、貧困であることが必ずしも原因であるわけではないと思います。そのことに気づいたとき、他に可能な支援があるのではないかと視野を広げることができるのではないかと思います。そうした気づきにくい部分に気づくことが必要なのだと思いました。


 こうして考えを巡らせながら、やはり、貧困のつながりの強さから連鎖は止められないのではないかと考えてしまったため、連鎖を止めるために保育の現場でできる支援はなんなのかについて考えることにしました。ネグレクトを受けていた親は子どもへの愛情の注ぎ方が分からず、同じように子どもに対してネグレクトをしてしまうことがあるという話をよく聞きます。しかし、それは必ずしもそうではないだろうと考えます。ネグレクトを受けていた人は確かに親からの愛情は受けられなかったかもしれません。しかし、保育者や、周囲の大人など、その子に愛情を注ぐことができる大人が全くいなかった訳ではないと思います。そう考えると、そうした周囲の大人が愛情を与えなかったことにも原因があるのではないかと考えられます。確かに、ネグレクトを受けている子どもは愛情を受け取る機会は少ないかもしれません。しかし、周囲がそのことに気づき、愛情をさりげなく与えることで、大人になった時に愛情の注ぎ方が分からないということにはならないのではないでしょうか。そして、これこそが保育者のできる連鎖を止める援助なのではないかと考えました。保育所に来る子どもたちを笑顔で受け入れ、たくさん遊ぶ機会を与え、食べて、寝て、精いっぱいの愛情で子どもたちと関わることは子どもにとって心に残る思い出となるはずです。実際、保育者を目指す人の中には、幼児期に関わってくれた先生にあこがれて、とか、一緒に遊んでもらって楽しかったことがとても印象に残っているからなどが保育者を目指したきっかけの人がいます。このように、大人になっても幼児期の思い出は強く心に残っている人が多くいます。保育者が関わることができる時間は人生において微々たるものかもしれません。しかし、幼児期の思い出が小学校以降よりも心に残っているのは、楽しかったことや愛情をもってかかわってくれたことが多くあったからではないでしょうか。保育者の関われる時間は長くてもたったの6年、されど6年なんだと感じました。その大切な時間に最大限の愛情をもってかかわることができる保育者になりたいなと思いました。


 この本を通して、保育者の無力さ、大変さ、保護者の大変さ、難しさなど、様々な負の部分に触れてきました。しかし、たくさんの負の部分を知ると同時に、議論を重ねる中で保育者の役割を再確認することができたり、保育の可能性に気づいたりすることができました。まだまだ答えの出ない問いにもたくさん出会いましたが、これからまだまだ考える余地があるということで、これから少しずつ考えていきたいと思いました。1つの章から疑問を持ち、様々な人の意見を聞き交流することで自分の知らない保育の姿、役割を知ることができ、とても有意義で濃い時間を過ごせたと感じています。ありがとうございました。







月曜日, 8月 24, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『放課後の地域の居場所から考える』(高木)

こんにちは!松本ゼミ3年の高木です。


 今回は、山下智也「放課後の地域の居場所から考える」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験―子どもの世界を守る』2019,明石書店,p.221-245]を読みました。


 この章は、私が小学校のころの放課後の過ごし方や、住んでいた地域の現状と重ねて考えることができ、私にとってはとても興味深い章でした。また、「きんしゃいきゃんぱす」の例を見たり、私は経験したことのないような様々な“放課後事情”をゼミのメンバーから聞いたり、自分にはなかった考えを聞いたり、することで“子ども放課後”の在り方を改めて考えさせられました。


 本章から、子どもが主体的に遊びを展開し、その子らしく居られる場所をもつためには、子どもが自らその場所を自分の居場所にしていく「自己化」のプロセスが重要であると学びました。丁度私が小学3年生から「放課後子ども教室」が始まったことを覚えています。放課後子ども教室が始まり、学校の先生の監視下ではなく、今まで自由にいつでも誰とでも遊べていた放課後から一変し、「この遊びをして遊ぶ」「〇時からは室内遊び」「~ちゃんは子ども教室に入ってないから一緒に遊ばないで」と、様々な制約が加えられとても不自由な世界に変わったと感じていました。ここには遊ぶ「空間」「時間」「仲間」がなかったわけではないのにどうしても居場所として“自己化”されませんでした。今回のゼミでの議論を通して、子ども教室のなかった放課後と同じだけの「3つの間」はあったはずなのに、何が自分たちの居場所として許せなかった部分なのかを再度考えたとき、今まで存在していないようで子どもの中には存在しているようなワクワクした時間であった「放課後」が一日のプログラムとして組み込まれ、大人のために、大人の監視下に置かれているように感じることが嫌だったのではないかと感じました。


 そしてこれは、「子どもの放課後のサービス化・市場化」についての話とも繋がるなと思います。地域との関係性も希薄となり、子どもが安全に過ごすことのできる環境が少なくなってきたこと等、子どもの放課後を「子ども教室」や「学童保育」に任せる必要が生じてきました。私たちの地域でも丁度私が小学生の時期が転換点だったのかもしれません。そして、子どもの安全に過ごすことのできる放課後は、「子ども教室」や「学童保育」等によって保障することができると考えられます。放課後は子どもにとって学校の時間、でもなく家での時間でもない一日の中での特別な時間であり、その時間を経済的資源として捉えている場所ではなく、その時間を子どもに保障する場所として存在するべきだと感じました。


 ただ、見方を変えれば、「子ども教室」「学童保育」にお金を払うことは、子どもの放課後が安全に保障されていること・その時間分の子育てに対する対価という捉え方もできるのではないでしょうか。今まで「お金」が発生しなかった放課後に、「お金」が関係するようになったことに疑問を感じていたのですが、「長い目で対価を支払う・今まで自分たちが受けてきたものを後世に返していこう」という大きなサイクルでの考え方が減少しているからなのではないかという考えが、とてもしっくりきました。現代の社会の構造からなのか、地域との関係性が薄くなっているからなのか、詳しくは分からないのですが、その場でその時目に見える形での価値化、としてお金に頼らざるを得なくなったのかな、とゼミでの話し合いを振り返り、感じました。だからこそ「放課後」は「サービスとしてお金で買った時間」ではなく、「子どもの遊びが保障される時間」としてあるべきではないでしょうか。子どもの放課後の存在とその大切さに気付き、「子ども教室」や「学童保育」でのこどもの遊びは保障されていくべきだと感じました。




土曜日, 8月 22, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『貧困対策における保育の再定位に向けて』(片岡)

 こんにちは。片岡です。松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, の第11章、萩原久美子「貧困対策における保育の再定位に向けて」を読みました。


 この章では、利用者の半数強が生活保護・非課税世帯というA保育所の事例があげられています。様々な状況に置かれている家庭や子どもを、延長保育(22時まで)、休日保育、一時保育なども実施する多機能型保育所として受け入れています。


 そんなA保育所の事例を読んで話題に上がったのは、保育組織に「幅=遊び」をもたせることの重要性です。この「遊び」は、子どもの“遊び”とは少し違った意味の、工学概念でいうところの「遊び(機械設計において、急激な力が及ぶのを防ぐために部品の結合にゆとりをもたせたり、物と物との結合部にゆとりを設けることでゆがみを減少させたりする、安全装置の一つ)」です。A保育所では、厚みのある職員体制にする、多元的な特別保育事業を実施する、縦割りによるクラス編成をするなどの工夫を行い、保育組織に「遊び」をもたせています。「遊び」のある職員体制が、保育士の研修や休暇をカバーし、結果的に保育組織が安定的に維持されています。


 保育組織が安定的に維持されることで、保育の豊かさ、様々な状況に置かれている家庭や子どもを受け入れる素地、余裕が生まれ、そのことが真の意味での「一人一人を大切にする保育」へとつながるのではないか。

 飲み会のための夜間延長保育の利用、自宅までの送迎等、ともすれば「一つの家庭で許したら、全員許さなければならなくなるからできない」と切り捨てられてしまうようなことも、そう捉えるのではなく「一人一人を大切に、その家庭や子どもの状況、理解に応じた関わりをしていく」という視点で、必要なところに必要な保育をしているA保育所。考えてみれば、このことは保育の基本であるにも関わらず、苦情が出た時に説明のつかないことにならないよう、平等に一律のルールを設けるという場面が多いように感じる昨今の保育現場。平等とは何なのか。一律のルールは、真の意味での「一人一人を大切に」ではない。


 また、保育者にとっては何があったら「遊び」があることになるのか、という意見も出ました。時間の余裕?保育者がたくさんいること?「しんどい」と言える環境?等々考える中で、私は大変さもしんどさも分かり合える職場環境かなと思いました。10年ほどの保育者経験の中で、納得がいかないことやつらいことも多々ありましたが、同僚や上司から「大変やったよね」「ありがとう」と声をかけてもらうだけで、乗り越えられることもありました。

 大変さもしんどさも分かり合える職場環境のためには、まず時間や保育者数の余裕が必要なのかもしれません。本章にも『最小限の物理的空間に、またその安全装置である「遊び」が欠如していることを取り上げずして保育士個人の質を問い、「保育の質」を語る行為は、保育の場を最小限の資源で最大の効果を引き出す生産至上主義的空間へと転換することにほかならない』とあります。


 保育組織が安定的に維持できるための制度的なことはまだまだ追いついていない中でも、貧困はじめ様々な困難な状況に置かれた家庭、子どもが存在しています。保育者としてその現実に向き合い、自分たちの手で生みだせる職場環境の「遊び」を大切に、真の意味での「一人一人を大切にした保育」をしていきたい、本章での議論またこの本全体を振り返ってそう感じました。




木曜日, 8月 13, 2020

7/28 ゼミ 15分せんせい『広告紙のコマ』(山﨑)

こんにちは。松本ゼミ3年の山﨑です。

今回の15分先生はみさき先生でした!

みさき先生の、保育所での素敵なエピソードとともに「広告紙のコマ」を紹介してくれました。


 コマはどんぐりや折り紙などいろいろな物で作ることができますが、広告紙を使ったコマは初めてでした。まずコマの芯となる部分を広告紙を巻いて作ります。その芯に太さを変えて巻いたケンをぐるぐる巻きつけて...あっという間に完成です!

 紙でケンを作る遊びは私も小さい頃好きでよくしていたので、その頃の感覚を思い出しながら夢中になって広告紙を巻きました。だんだん会話がなくなっていくほど、みんなで真剣にコマを作りました。夢中になって遊ぶ子どももきっとこんな気持ちなんだろうなと思いました。できたコマを回してみると、想像していたよりも安定して回る!回った瞬間には「おー!」と歓声が沸きました。どうしたら安定して回るのかなと考えて、広告紙を巻きつける位置を動かしてみたり芯の部分を少し尖らせてみたりしました。こうしたらいいんじゃない?と誰かが出してくれたアイデアを聞いて、自分もやってみる。やってみることで新しい発見がたくさんありました。回すといろんな色が混ざって見えてとてもきれいです。ずーっと見ていても飽きないなと思いました。広告紙はいろんな色があるので、それも広告紙で作る良さかもしれないと思いました。「自分だけのコマ」というのが嬉しくてだんだん愛着が湧いてきました。

 自分のコマを友達と一緒に回してどっちが長く回るかなと勝負するのもとても楽しかったです。上手に回せる人を見て、どうやって回してるのかなとよく観察したり、コツを聞いたり、友だちとのコミュニケーションも生まれるなと思いました。個人的な話なのですが私はコマに対して苦手意識がありました。今まであまり自分から挑戦してこなかったのですが、今回の活動で「回すのじょうずだね!」とほめてもらったことがとても嬉しくて少し自信がついたような気がします。自分のこの体験から、私のように苦手だなと感じている子もこの広告紙のコマだったら楽しんで遊べるかもしれない!と思いました。とても楽しい時間でした。みさき先生、ありがとう!











月曜日, 8月 03, 2020

7/28 ゼミ『地域子育て支援拠点事業の多様なあり方—夜の多世代型子育てサロンはじめました』(高木)

 こんにちは!松本ゼミ3年の高木です。今回は、小林真弓「地域子育て支援拠点事業の多様なあり方―夜の多世代型子育てサロンはじめました」(松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店)を読みました。 
 レジュメを担当してくださった片岡さんの考えを聞き、「地域子育て支援事業のあり方も、もう少し多様性があってもよいのではないか?」(p.216)という思いが実現化したその背景には何があったのが、実現化させた要因は何かという問いに向かって議論していきました。少しその問いの答えとはずれるのですが、私の考えたことを書きたいと思います。
 私はまだ、子育て広場、地域子育て支援拠点、サロンと聞いても、保育士の養成課程にいる者としても、もちろん母親という立場としてもまだその雰囲気を体験したことはありません。自分にとっては未知の世界ということもあり、なんとなく緊張感のあるそんなイメージでした。しかし、本章で取り上げられている「ねっこぼっこのいえ」は、自分の意思で誰でも利用でき、かつその中の雰囲気もゆったりとした場所であるという印象を受けました。しかしこのような「子育てを支援する場」には居心地がよい場所と、次からは来なくてもいいかな〜と思ってしまう場所がやはりあるようです。何がその違いを生み出しているのか。今回の話し合いで2つ大切なことを見つけました。
 1つ目は、その場に「あそび」があること、そしてその場が「あそび」であること。「緊張する面談や会議の場にお茶が一つあれば、少し場が和む…」という意見がありました。面談や会議では話し合うこと、コミュニケーションが目的です。ただその目的を果たすためだけの場だと少し緊張した雰囲気になるなと感じます。場を和ませる何か「あそび」があることがその場に足を運びやすくさせるのではないでしょうか。そしてこの子育て広場のような場所を「学校でも家庭でもない、行かなくてはいけない場ではなく自由意思で行くフリーな場」(p.212)と捉えた時、その場所自体が人の生活の中でほっと一息できる「あそび」と感じられるものかどうかが関わってくるのかなと思いました。
 2つ目は、“みんな同じ”を強いる場所ではないこと。例えばみんなに同じ方法で支援することは、支援する側は単純ですが、みんな必要だと感じていること、悩んでいること、考えていることは同じではありません。その人に必要な支援があるのではないでしょうか。支援は一例ですが、“みんな同じ”にしようとすることは居心地が悪いと感じさせる要因とも言えるのかなと思いました。
 「出会ってしまったその人のことを、一緒に過ごす中で、知らざるを得なくなり、また知るなかで多面的な視点を持つようになった」(p.215) 私はこの文章が今回の話し合いのキーセンテンスなのではないかと感じました。何か新しいことへ踏み込むことができたその背景の一つには、“出会い”があり、そして“知らざるを得なくなった”状況が視野を広げ、「必要」や「需要」を見つけることができた、行動に移すきっかけができたのかもしれません。人と出会うことは逃げられないし、出会ってしまったことを変えられないし、でもそれが私たちの視野を少しずつ広げていくのです。そして、出会った人と、出会える場所を大切にしたいと感じさせられました。ゼミでの“出会い”にも感謝です!!