月曜日, 8月 24, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『放課後の地域の居場所から考える』(高木)

こんにちは!松本ゼミ3年の高木です。


 今回は、山下智也「放課後の地域の居場所から考える」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験―子どもの世界を守る』2019,明石書店,p.221-245]を読みました。


 この章は、私が小学校のころの放課後の過ごし方や、住んでいた地域の現状と重ねて考えることができ、私にとってはとても興味深い章でした。また、「きんしゃいきゃんぱす」の例を見たり、私は経験したことのないような様々な“放課後事情”をゼミのメンバーから聞いたり、自分にはなかった考えを聞いたり、することで“子ども放課後”の在り方を改めて考えさせられました。


 本章から、子どもが主体的に遊びを展開し、その子らしく居られる場所をもつためには、子どもが自らその場所を自分の居場所にしていく「自己化」のプロセスが重要であると学びました。丁度私が小学3年生から「放課後子ども教室」が始まったことを覚えています。放課後子ども教室が始まり、学校の先生の監視下ではなく、今まで自由にいつでも誰とでも遊べていた放課後から一変し、「この遊びをして遊ぶ」「〇時からは室内遊び」「~ちゃんは子ども教室に入ってないから一緒に遊ばないで」と、様々な制約が加えられとても不自由な世界に変わったと感じていました。ここには遊ぶ「空間」「時間」「仲間」がなかったわけではないのにどうしても居場所として“自己化”されませんでした。今回のゼミでの議論を通して、子ども教室のなかった放課後と同じだけの「3つの間」はあったはずなのに、何が自分たちの居場所として許せなかった部分なのかを再度考えたとき、今まで存在していないようで子どもの中には存在しているようなワクワクした時間であった「放課後」が一日のプログラムとして組み込まれ、大人のために、大人の監視下に置かれているように感じることが嫌だったのではないかと感じました。


 そしてこれは、「子どもの放課後のサービス化・市場化」についての話とも繋がるなと思います。地域との関係性も希薄となり、子どもが安全に過ごすことのできる環境が少なくなってきたこと等、子どもの放課後を「子ども教室」や「学童保育」に任せる必要が生じてきました。私たちの地域でも丁度私が小学生の時期が転換点だったのかもしれません。そして、子どもの安全に過ごすことのできる放課後は、「子ども教室」や「学童保育」等によって保障することができると考えられます。放課後は子どもにとって学校の時間、でもなく家での時間でもない一日の中での特別な時間であり、その時間を経済的資源として捉えている場所ではなく、その時間を子どもに保障する場所として存在するべきだと感じました。


 ただ、見方を変えれば、「子ども教室」「学童保育」にお金を払うことは、子どもの放課後が安全に保障されていること・その時間分の子育てに対する対価という捉え方もできるのではないでしょうか。今まで「お金」が発生しなかった放課後に、「お金」が関係するようになったことに疑問を感じていたのですが、「長い目で対価を支払う・今まで自分たちが受けてきたものを後世に返していこう」という大きなサイクルでの考え方が減少しているからなのではないかという考えが、とてもしっくりきました。現代の社会の構造からなのか、地域との関係性が薄くなっているからなのか、詳しくは分からないのですが、その場でその時目に見える形での価値化、としてお金に頼らざるを得なくなったのかな、とゼミでの話し合いを振り返り、感じました。だからこそ「放課後」は「サービスとしてお金で買った時間」ではなく、「子どもの遊びが保障される時間」としてあるべきではないでしょうか。子どもの放課後の存在とその大切さに気付き、「子ども教室」や「学童保育」でのこどもの遊びは保障されていくべきだと感じました。




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