月曜日, 8月 31, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿 完結編『「子どもの世界」を社会全体で守るために―家族主義をどう乗り越えるか』(山﨑)

 こんにちは。松本ゼミ3年の山﨑です。

 今回は、終章 小西祐馬『「子どもの世界」を社会全体で守るために―家族主義をどう乗り越えるか』を読みました。この本をみんなで読みながらこれまでいろいろなことを考えてきましたが、ついに最後の章にきました!一人では分厚くて読むのが難しそうな本でもみんなで読めばあっという間で「みんなで一緒に」の力はすごいなと思います。

 私はこの章を読み「時間の貧困」というものに着目しました。時間の貧困は金銭的な貧困よりも見えにくいなと感じます。時間のなさは心の余裕を奪い、子どもが「遊び」に夢中になれるゆとりも奪ってしまう、重大な問題なのになぜあまり取り上げられていないのかを考えながら議論を進めていきました。本章で出てきたニューヨークタイムズの記事で取り上げられていたニシマサさんの一日はとても多忙に見えました。仕事や家事に加えて、子どもの送迎や宿題を見たり、保育所の持ち帰り仕事などやることは山積みです。私はこのニシマサさんの日々のスケジュールを見て「大変そうだな…想像しただけで疲れるかもしれない…」と思ってしまいましたが、みんなでニシマサさんの記事について話をしているときに「でもニシマサさんはこれを大変だと思ってるのかな?」という意見が出てきました。記事の中にニシマサさんはどう思っているかは一切書かれていません。きっとニシマサさんはこの生活を淡々とこなしているのだろうなと思いました。ここから私が思ったのは、時間の貧困の中にいる当の本人が、それが問題だと気付いていないことが問題だということです。誰かがそれは当たり前ではないよと言わないと気付くことができない、時間の貧困問題は根が深いなと感じました。

 日本の家族主義やジェンダー平等、女性の権利の保障など解決するにはいろいろなことを一つずつ変えていかなければならないことが分かりましたが、私たちにできることは限られています。私たちがこれからできることはなんなのかみんなで考えました。保育者として子どもの遊びを保証していくために、8章の「きんしゃいきゃんぱす」で出てきた領域のグラデーションを保育室で実践してみたらどうかな。保育所のお迎えの時間に、家に帰ってごはんの用意をしないといけないけど、ちょっとおしゃべりしてほっとできるような場所に保育所がなれたらいいね。子どもが保育所でいっぱい遊んで、満足して機嫌よく帰ってくることが親の心の余裕につながり、そこから時間の余裕が生まれるかもしれないね。小さなことだけど私たちにできることはたくさんあるんだなと思いました。これからも自分にできることは何か考え、小さいことから変えていこうという姿勢を大切にしていきたいです。

 ゼミでこの本を読み、考えたことについて話し合う中で自分以外の人の考えに触れ、たくさん刺激をもらいました。本がきっかけとなりいろんなことを話せるんだなと感じました。普段の生活や授業でゼミで話した内容が出てくると、3年の3人で「これゼミで出てきたことだよね!」「ゼミで話したことってこういうことだったんだ!」と話せたこともとても嬉しかったです。ここでみんなで考えたことを活かしてまたいろいろなことを考えていきたいなと思います!






日曜日, 8月 30, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『子育ての分断と連続』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ3年の髙橋です。今回は、岩田美香「子育ての分断と連続」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, p.270-286]を読みました。


 この章は親の育児不安を中心として子育てについて書かれており、私は「育児不安」と「他者との比較」に着目しました。

 近年では核家族化によって育児機能が家族に集中し、親は多様な育児資源や育児機会を取捨選択して子どもに届ける役割を担っています。そのため、わが子の育ちは自分の選択によって決まるかもしれないと責任を感じる親も少なくないでしょう。それを感じやすいのが「他者と比較」する場面だと思います。比較した結果、他者との差を感じて悩みや不安を抱き、その差が自分の選択の責任だと感じてさらに悩みや不安が増幅していくのではないかと考えます。


 みんなの感想を聞く中で、他者と比較する場面は私たちの生活に沢山存在しているのだと感じました。育児資源や育児機会を利用していく中で知らないうちに他者と競争させられていたり、SNS上でパッと偶然目に入ってきた情報によって他者と比較してしまったりすることもあります。家族の外部とつながればつながるほど得られる情報が多くなったり人との関わりが生まれたりしますが、外部を知る分他者と比較する(比較してしまう、比較せざるを得ない)場面に多く直面するのだと思いました。


 「他者との比較」によって「育児不安」になることもあるのだと知り、保護者の育児不安を少しでも軽減するために保育者の関わり方において何を心がけるべきか話し合いました。ものさしの多様化、子どものできていること(今)を伝える、何に不安を感じているのかを知る、話せる雰囲気づくり、保護者を認める、重く受け止めすぎずに聴く、と沢山の心がけるべきことが挙がりました。これらの共通点を考えると、“安心”。子どもの安心と同じように保護者の安心をも確保することが大切だと思います。保護者にもしっかり目を向けることの重要性をとても感じました。


 この本を通して、今まで知らなかったことや今まで何となく疑問に感じていたことを学ぶことができ、自分の世界が広がったように感じます。読みながら自分の経験と結びつけて考えたり、将来こんな風になりたいと思い描いたりして、過去のことも未来のことも考え深められて楽しかったです。この本が出会わせてくれた新たな興味や疑問をこれからも考え続けていこうと思います。




金曜日, 8月 28, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『子どもの健康と貧困』(髙谷)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙谷です。

 今回は、佐藤洋一「子どもの健康と貧困」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019,明石書店,p249-267]を読みました。


 この章では、貧困と健康の関係を医療現場でみられる事例を基に示されていました。貧困は一時的影響だけでなく、慢性的に健康に悪影響を及ぼす可能性があることが分かりました。


 本章から、二つのことについて考えました。一つ目は、貧困のつながり・連鎖についてです。貧困は健康面、経済面などに悪影響をもたらし、それに伴い精神面や人間関係などにも影響が出てくる場合があります。このような一時的に広がっていく影響を貧困の横のつながりと捉えました。次に、本章で取り上げられていたような慢性的な影響によって、貧困が親から子どもへと連鎖していくことがあります。これを貧困の縦のつながりと捉えました。横のつながりは図で示せるような単純なものではなく、貧困から健康面や精神面に影響が出る場合もあれば、健康面や精神面の不調が貧困につながるというケースもあります。縦のつながりは順序性こそありますが、「不健康な人が必ずしも貧困である」という文が成り立たないように、縦のつながりは可能性の問題であり、統計的にはつながる可能性が高くても、絶対ではないというところが注意するべき点だと考えました。


 二つ目は、貧困のとらえ方についてです。「医療現場では問題行動にばかりに目が行きがちで、その背景にある貧困に気づきにくい。」(p.253)これは、保育現場でもよく言われることだと思います。背景に挙げられるものは貧困だけでなく、発達障害や家庭環境など様々ですが、問題行動は見えても背景が見えていない場面は多くあるのではないかと思います。一方で、子どもの背景を知り、貧困であると分かった時、問題行動のすべてを貧困が原因であるととらえてしまうことは、また違った問題へとつながるのではないかと考えました。「貧困家庭の子どもだから、、、」というような貧困のフィルターで子どもを見てしまうと、子どもとの関わり方が良くも悪くも変わってくると思います。

 それでは、貧困をどう捉えていけばいいのでしょうか。話し合う中でとても府に落ちた意見がありました。それは、貧困をその子の特徴の1つとして捉える考え方です。身長が高い、低い、運動が好き、絵を描くのが得意など、人はそれぞれ異なる特徴を持っています。貧困もその特徴の1つとしてとらえるのです。特別支援の考え方として、全員に同じ支援をするのではなく、必要な人に必要な支援を行い、その結果として、同じようなことができるのであれば、それは贔屓ではなく、適切な支援であるという考え方があります。貧困という特徴があるとき、貧困であることが必ずしも原因であるわけではないと思います。そのことに気づいたとき、他に可能な支援があるのではないかと視野を広げることができるのではないかと思います。そうした気づきにくい部分に気づくことが必要なのだと思いました。


 こうして考えを巡らせながら、やはり、貧困のつながりの強さから連鎖は止められないのではないかと考えてしまったため、連鎖を止めるために保育の現場でできる支援はなんなのかについて考えることにしました。ネグレクトを受けていた親は子どもへの愛情の注ぎ方が分からず、同じように子どもに対してネグレクトをしてしまうことがあるという話をよく聞きます。しかし、それは必ずしもそうではないだろうと考えます。ネグレクトを受けていた人は確かに親からの愛情は受けられなかったかもしれません。しかし、保育者や、周囲の大人など、その子に愛情を注ぐことができる大人が全くいなかった訳ではないと思います。そう考えると、そうした周囲の大人が愛情を与えなかったことにも原因があるのではないかと考えられます。確かに、ネグレクトを受けている子どもは愛情を受け取る機会は少ないかもしれません。しかし、周囲がそのことに気づき、愛情をさりげなく与えることで、大人になった時に愛情の注ぎ方が分からないということにはならないのではないでしょうか。そして、これこそが保育者のできる連鎖を止める援助なのではないかと考えました。保育所に来る子どもたちを笑顔で受け入れ、たくさん遊ぶ機会を与え、食べて、寝て、精いっぱいの愛情で子どもたちと関わることは子どもにとって心に残る思い出となるはずです。実際、保育者を目指す人の中には、幼児期に関わってくれた先生にあこがれて、とか、一緒に遊んでもらって楽しかったことがとても印象に残っているからなどが保育者を目指したきっかけの人がいます。このように、大人になっても幼児期の思い出は強く心に残っている人が多くいます。保育者が関わることができる時間は人生において微々たるものかもしれません。しかし、幼児期の思い出が小学校以降よりも心に残っているのは、楽しかったことや愛情をもってかかわってくれたことが多くあったからではないでしょうか。保育者の関われる時間は長くてもたったの6年、されど6年なんだと感じました。その大切な時間に最大限の愛情をもってかかわることができる保育者になりたいなと思いました。


 この本を通して、保育者の無力さ、大変さ、保護者の大変さ、難しさなど、様々な負の部分に触れてきました。しかし、たくさんの負の部分を知ると同時に、議論を重ねる中で保育者の役割を再確認することができたり、保育の可能性に気づいたりすることができました。まだまだ答えの出ない問いにもたくさん出会いましたが、これからまだまだ考える余地があるということで、これから少しずつ考えていきたいと思いました。1つの章から疑問を持ち、様々な人の意見を聞き交流することで自分の知らない保育の姿、役割を知ることができ、とても有意義で濃い時間を過ごせたと感じています。ありがとうございました。







月曜日, 8月 24, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『放課後の地域の居場所から考える』(高木)

こんにちは!松本ゼミ3年の高木です。


 今回は、山下智也「放課後の地域の居場所から考える」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験―子どもの世界を守る』2019,明石書店,p.221-245]を読みました。


 この章は、私が小学校のころの放課後の過ごし方や、住んでいた地域の現状と重ねて考えることができ、私にとってはとても興味深い章でした。また、「きんしゃいきゃんぱす」の例を見たり、私は経験したことのないような様々な“放課後事情”をゼミのメンバーから聞いたり、自分にはなかった考えを聞いたり、することで“子ども放課後”の在り方を改めて考えさせられました。


 本章から、子どもが主体的に遊びを展開し、その子らしく居られる場所をもつためには、子どもが自らその場所を自分の居場所にしていく「自己化」のプロセスが重要であると学びました。丁度私が小学3年生から「放課後子ども教室」が始まったことを覚えています。放課後子ども教室が始まり、学校の先生の監視下ではなく、今まで自由にいつでも誰とでも遊べていた放課後から一変し、「この遊びをして遊ぶ」「〇時からは室内遊び」「~ちゃんは子ども教室に入ってないから一緒に遊ばないで」と、様々な制約が加えられとても不自由な世界に変わったと感じていました。ここには遊ぶ「空間」「時間」「仲間」がなかったわけではないのにどうしても居場所として“自己化”されませんでした。今回のゼミでの議論を通して、子ども教室のなかった放課後と同じだけの「3つの間」はあったはずなのに、何が自分たちの居場所として許せなかった部分なのかを再度考えたとき、今まで存在していないようで子どもの中には存在しているようなワクワクした時間であった「放課後」が一日のプログラムとして組み込まれ、大人のために、大人の監視下に置かれているように感じることが嫌だったのではないかと感じました。


 そしてこれは、「子どもの放課後のサービス化・市場化」についての話とも繋がるなと思います。地域との関係性も希薄となり、子どもが安全に過ごすことのできる環境が少なくなってきたこと等、子どもの放課後を「子ども教室」や「学童保育」に任せる必要が生じてきました。私たちの地域でも丁度私が小学生の時期が転換点だったのかもしれません。そして、子どもの安全に過ごすことのできる放課後は、「子ども教室」や「学童保育」等によって保障することができると考えられます。放課後は子どもにとって学校の時間、でもなく家での時間でもない一日の中での特別な時間であり、その時間を経済的資源として捉えている場所ではなく、その時間を子どもに保障する場所として存在するべきだと感じました。


 ただ、見方を変えれば、「子ども教室」「学童保育」にお金を払うことは、子どもの放課後が安全に保障されていること・その時間分の子育てに対する対価という捉え方もできるのではないでしょうか。今まで「お金」が発生しなかった放課後に、「お金」が関係するようになったことに疑問を感じていたのですが、「長い目で対価を支払う・今まで自分たちが受けてきたものを後世に返していこう」という大きなサイクルでの考え方が減少しているからなのではないかという考えが、とてもしっくりきました。現代の社会の構造からなのか、地域との関係性が薄くなっているからなのか、詳しくは分からないのですが、その場でその時目に見える形での価値化、としてお金に頼らざるを得なくなったのかな、とゼミでの話し合いを振り返り、感じました。だからこそ「放課後」は「サービスとしてお金で買った時間」ではなく、「子どもの遊びが保障される時間」としてあるべきではないでしょうか。子どもの放課後の存在とその大切さに気付き、「子ども教室」や「学童保育」でのこどもの遊びは保障されていくべきだと感じました。




土曜日, 8月 22, 2020

8/17-18 泊まらないゼミ合宿『貧困対策における保育の再定位に向けて』(片岡)

 こんにちは。片岡です。松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, の第11章、萩原久美子「貧困対策における保育の再定位に向けて」を読みました。


 この章では、利用者の半数強が生活保護・非課税世帯というA保育所の事例があげられています。様々な状況に置かれている家庭や子どもを、延長保育(22時まで)、休日保育、一時保育なども実施する多機能型保育所として受け入れています。


 そんなA保育所の事例を読んで話題に上がったのは、保育組織に「幅=遊び」をもたせることの重要性です。この「遊び」は、子どもの“遊び”とは少し違った意味の、工学概念でいうところの「遊び(機械設計において、急激な力が及ぶのを防ぐために部品の結合にゆとりをもたせたり、物と物との結合部にゆとりを設けることでゆがみを減少させたりする、安全装置の一つ)」です。A保育所では、厚みのある職員体制にする、多元的な特別保育事業を実施する、縦割りによるクラス編成をするなどの工夫を行い、保育組織に「遊び」をもたせています。「遊び」のある職員体制が、保育士の研修や休暇をカバーし、結果的に保育組織が安定的に維持されています。


 保育組織が安定的に維持されることで、保育の豊かさ、様々な状況に置かれている家庭や子どもを受け入れる素地、余裕が生まれ、そのことが真の意味での「一人一人を大切にする保育」へとつながるのではないか。

 飲み会のための夜間延長保育の利用、自宅までの送迎等、ともすれば「一つの家庭で許したら、全員許さなければならなくなるからできない」と切り捨てられてしまうようなことも、そう捉えるのではなく「一人一人を大切に、その家庭や子どもの状況、理解に応じた関わりをしていく」という視点で、必要なところに必要な保育をしているA保育所。考えてみれば、このことは保育の基本であるにも関わらず、苦情が出た時に説明のつかないことにならないよう、平等に一律のルールを設けるという場面が多いように感じる昨今の保育現場。平等とは何なのか。一律のルールは、真の意味での「一人一人を大切に」ではない。


 また、保育者にとっては何があったら「遊び」があることになるのか、という意見も出ました。時間の余裕?保育者がたくさんいること?「しんどい」と言える環境?等々考える中で、私は大変さもしんどさも分かり合える職場環境かなと思いました。10年ほどの保育者経験の中で、納得がいかないことやつらいことも多々ありましたが、同僚や上司から「大変やったよね」「ありがとう」と声をかけてもらうだけで、乗り越えられることもありました。

 大変さもしんどさも分かり合える職場環境のためには、まず時間や保育者数の余裕が必要なのかもしれません。本章にも『最小限の物理的空間に、またその安全装置である「遊び」が欠如していることを取り上げずして保育士個人の質を問い、「保育の質」を語る行為は、保育の場を最小限の資源で最大の効果を引き出す生産至上主義的空間へと転換することにほかならない』とあります。


 保育組織が安定的に維持できるための制度的なことはまだまだ追いついていない中でも、貧困はじめ様々な困難な状況に置かれた家庭、子どもが存在しています。保育者としてその現実に向き合い、自分たちの手で生みだせる職場環境の「遊び」を大切に、真の意味での「一人一人を大切にした保育」をしていきたい、本章での議論またこの本全体を振り返ってそう感じました。




木曜日, 8月 13, 2020

7/28 ゼミ 15分せんせい『広告紙のコマ』(山﨑)

こんにちは。松本ゼミ3年の山﨑です。

今回の15分先生はみさき先生でした!

みさき先生の、保育所での素敵なエピソードとともに「広告紙のコマ」を紹介してくれました。


 コマはどんぐりや折り紙などいろいろな物で作ることができますが、広告紙を使ったコマは初めてでした。まずコマの芯となる部分を広告紙を巻いて作ります。その芯に太さを変えて巻いたケンをぐるぐる巻きつけて...あっという間に完成です!

 紙でケンを作る遊びは私も小さい頃好きでよくしていたので、その頃の感覚を思い出しながら夢中になって広告紙を巻きました。だんだん会話がなくなっていくほど、みんなで真剣にコマを作りました。夢中になって遊ぶ子どももきっとこんな気持ちなんだろうなと思いました。できたコマを回してみると、想像していたよりも安定して回る!回った瞬間には「おー!」と歓声が沸きました。どうしたら安定して回るのかなと考えて、広告紙を巻きつける位置を動かしてみたり芯の部分を少し尖らせてみたりしました。こうしたらいいんじゃない?と誰かが出してくれたアイデアを聞いて、自分もやってみる。やってみることで新しい発見がたくさんありました。回すといろんな色が混ざって見えてとてもきれいです。ずーっと見ていても飽きないなと思いました。広告紙はいろんな色があるので、それも広告紙で作る良さかもしれないと思いました。「自分だけのコマ」というのが嬉しくてだんだん愛着が湧いてきました。

 自分のコマを友達と一緒に回してどっちが長く回るかなと勝負するのもとても楽しかったです。上手に回せる人を見て、どうやって回してるのかなとよく観察したり、コツを聞いたり、友だちとのコミュニケーションも生まれるなと思いました。個人的な話なのですが私はコマに対して苦手意識がありました。今まであまり自分から挑戦してこなかったのですが、今回の活動で「回すのじょうずだね!」とほめてもらったことがとても嬉しくて少し自信がついたような気がします。自分のこの体験から、私のように苦手だなと感じている子もこの広告紙のコマだったら楽しんで遊べるかもしれない!と思いました。とても楽しい時間でした。みさき先生、ありがとう!











月曜日, 8月 03, 2020

7/28 ゼミ『地域子育て支援拠点事業の多様なあり方—夜の多世代型子育てサロンはじめました』(高木)

 こんにちは!松本ゼミ3年の高木です。今回は、小林真弓「地域子育て支援拠点事業の多様なあり方―夜の多世代型子育てサロンはじめました」(松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店)を読みました。 
 レジュメを担当してくださった片岡さんの考えを聞き、「地域子育て支援事業のあり方も、もう少し多様性があってもよいのではないか?」(p.216)という思いが実現化したその背景には何があったのが、実現化させた要因は何かという問いに向かって議論していきました。少しその問いの答えとはずれるのですが、私の考えたことを書きたいと思います。
 私はまだ、子育て広場、地域子育て支援拠点、サロンと聞いても、保育士の養成課程にいる者としても、もちろん母親という立場としてもまだその雰囲気を体験したことはありません。自分にとっては未知の世界ということもあり、なんとなく緊張感のあるそんなイメージでした。しかし、本章で取り上げられている「ねっこぼっこのいえ」は、自分の意思で誰でも利用でき、かつその中の雰囲気もゆったりとした場所であるという印象を受けました。しかしこのような「子育てを支援する場」には居心地がよい場所と、次からは来なくてもいいかな〜と思ってしまう場所がやはりあるようです。何がその違いを生み出しているのか。今回の話し合いで2つ大切なことを見つけました。
 1つ目は、その場に「あそび」があること、そしてその場が「あそび」であること。「緊張する面談や会議の場にお茶が一つあれば、少し場が和む…」という意見がありました。面談や会議では話し合うこと、コミュニケーションが目的です。ただその目的を果たすためだけの場だと少し緊張した雰囲気になるなと感じます。場を和ませる何か「あそび」があることがその場に足を運びやすくさせるのではないでしょうか。そしてこの子育て広場のような場所を「学校でも家庭でもない、行かなくてはいけない場ではなく自由意思で行くフリーな場」(p.212)と捉えた時、その場所自体が人の生活の中でほっと一息できる「あそび」と感じられるものかどうかが関わってくるのかなと思いました。
 2つ目は、“みんな同じ”を強いる場所ではないこと。例えばみんなに同じ方法で支援することは、支援する側は単純ですが、みんな必要だと感じていること、悩んでいること、考えていることは同じではありません。その人に必要な支援があるのではないでしょうか。支援は一例ですが、“みんな同じ”にしようとすることは居心地が悪いと感じさせる要因とも言えるのかなと思いました。
 「出会ってしまったその人のことを、一緒に過ごす中で、知らざるを得なくなり、また知るなかで多面的な視点を持つようになった」(p.215) 私はこの文章が今回の話し合いのキーセンテンスなのではないかと感じました。何か新しいことへ踏み込むことができたその背景の一つには、“出会い”があり、そして“知らざるを得なくなった”状況が視野を広げ、「必要」や「需要」を見つけることができた、行動に移すきっかけができたのかもしれません。人と出会うことは逃げられないし、出会ってしまったことを変えられないし、でもそれが私たちの視野を少しずつ広げていくのです。そして、出会った人と、出会える場所を大切にしたいと感じさせられました。ゼミでの“出会い”にも感謝です!!


月曜日, 7月 27, 2020

7/21 ゼミ『やはり、授業がプレイフルであること』(山﨑)

こんにちは!松本ゼミ3年の山﨑です。
今回は、石川晋「やはり、授業がプレイフルであること」(松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店を読みました。
 今回の担当である高谷さんの考えを聞き、「プレイフルである」とはどういうことなのかみんなで話を深めていきました。
 様々な事例を読む中で、教科書の内容を教師がただ教えるだけというような受動的な学びではなく、身近な事柄をテーマとしたディベートなどの能動的な学びがプレイフルな授業につながるということが分かりました。そこから、子どもは自分の生活に関連していることに興味を示すのかな、実験するときに理科室に入るとわくわくする!というようなプレイフルは空間が必要なんじゃないか、大人が準備周到に全部を説明したり用意したりすると、こうしたらどうなるんだろう?という子どもの楽しみを奪うことにつながるよね、いろんな意見が出てきました。いろんな選択肢があって、子どもが自分でその中から選べることは子どもの主体性にもつながる。この章で紹介されていた「ごんぎつね」の授業ではまさにこの「選択肢」がありました。課題は10個程提示されていますが、子どもたちは全部するわけではなくその中から選んで取り組みます。この授業を見た時に「すっごい楽しそうだけどこんな授業が毎時間だったら疲れるかも…」という感想が出てきました。私もそうかもしれないと思いました。なんで疲れるのかなと考えてみて分かったことは、選択し続けるのには負荷がかかるということ。そして、その授業がいつもと違うと感じるからだということです。「今日だけやっていいよ!」のようにそれが行事的になってしまうのではなく日々の生活の積み重ねで、日常がプレイフルであることが大事なんだと思いました。

「なんでもやっていいよ」「好きにしていいよ」と急に言われて、子どもたちはできるかというとそうではありません。「なんでもしていいよ」は一見子どもの力を引き出しているようで、実はそうなっていないことがあるんだなと考えさせられました。

 話をしていく中で、プレイフルであるには「選ぶこと・生活につながること」よりも子どもがその先で何を「自分で見つけていくのか」が重要であるなと感じました。子どもが自分で見つけていけるように大人が場だけではなく、どんな仕掛けをつくっていけばいいのか、これから私たちがずっと考えていかなければならないと思います。

 毎回ゼミで他の人の考えにたくさん触れ、刺激をもらっています。まだまだ自分は深く考えることができていなかったり、考えを上手く言えなかったりすることもありますが、これからもいろんな考え方に触れ、自分の視野を広げていきたいなと思います!


金曜日, 7月 24, 2020

7/21 ゼミ 15分せんせい『カラフル万華鏡』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ3年の髙橋です。
 今回の15分先生は はな先生でした!
 「牛乳パックで作るカラフル万華鏡」を紹介してくれました。

 一般的な万華鏡は仕切りを作ったりミラーシートを作ったりと意外と大変。でも、今回作った万華鏡はとても簡単!牛乳パックの口を四角錐に整えて銀紙を貼り、模様や絵を描いた面を内側にして画用紙をその牛乳パックに巻き付けます。牛乳パックを動かすと、銀紙に映った模様がとてもきれいに見えます。

 いろいろな色のペンで思い思いに模様や絵を描いて、作る過程でも楽しんで活動しました。太い線で描いたほうがより見えやすい!ストライプ状に描いたり塗りつぶしたりするとよりきれいに見える!と、ペンを滑らせながらいろいろな見え方について発見しました。また、牛乳パックの口の形を変えたらどうなるのだろう?と思って平らな四角や半球に変形してみたり、銀紙ではなくアルミホイルを貼ってみたりもしました。いろいろな疑問をもって工夫し、そこから新たな発見が生まれるということの楽しさや爽快感を感じました。

 自分が絵や模様を描いているのに銀紙に映る模様を予想することはできない、ということも万華鏡の魅力だと今回気付くことができました。描いたものによって見える模様が違い、みんなで互いに作ったものを見せ合って観賞するのも楽しかったです。
 はな先生、ありがとうございました!!





月曜日, 7月 20, 2020

7/14ゼミ『みんなが気持ちいい学童保育』(片岡)

 こんにちは。片岡です。松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, の第五章、長谷川佳代子「みんなが気持ちいい学童保育」を読みました。

 この章で何度も出てくる「面白い、楽しい、気持ちいい」というキーワード。中でも、子どもにとって“気持ちいい”と感じられる社会とはどんな社会なのか、ということについて考えました。

・“面白い”や“楽しい”はワクワク。“気持ちいい”は居心地がいい、過ごしやすい。
・保育で言う「教育」が“面白い”や“楽しい”、「養護」が気持ちいい。
・学校にあるのは“面白い”や“楽しい”
・貧困の子どもを考えた時、“面白い”や“楽しい”は支援の手などで満たすことができるが、“気持ちいい”は難しい。
・“面白い”や“楽しい”が満たされても、“気持ちいい”は満たされないことがある。

 子どもの保育や遊びについて考えるとき、「面白い」や「楽しい」は追求するけれど、それだけでなく、それらの土台ともいえる「気持ちいい」についても大切にしなければならないと感じました。

 そして、自分が子どもの頃に学童保育に行っていた経験や、行ってみたいなと思った経験、いま我が子を学童保育に預けている経験や、以前預けていた経験など、それぞれの立場から、意見を交わしました。

 学校のようにできる/できないと評価されることがない、先生でも保護者でもない第3者としての指導員がいて自由に話せる、まわりの目を気にせずゆったり落ち着いて過ごせる・・・そういったことが保証されている学童保育は、子どもにとってまさに“気持ちいい”場所だろうと、子どもの視点から学童保育を考える時間になりました。


土曜日, 7月 18, 2020

7/14 ゼミ 15分せんせい『スポンジボール』(山﨑)

 こんにちは。山﨑です。

 今回の15分先生は りさ先生です!
 スポンジを使って作る「スポンジボール」を紹介してくれました。

 材料は台所用スポンジと輪ゴムだけ!とっても簡単に作れます。スポンジをはさみで細長く棒状に切ります。切ったスポンジを輪ゴムで束ねると...ふわふわスポンジボールの完成です!

 カラフルなスポンジでみんな思い思いのスポンジボールを作りました。スポンジの切る太さ、量、長さ、輪ゴムのしめ方で完成が全然違います。きれいな球に近いものもあれば、ウニのようなものもあって、こういうのって性格がでるね~など話をしながら夢中になってたくさん作りました。最初りさ先生が作ってきてくれたスポンジボールを見て、難しそう!と思ったのですが、思ったより簡単に作ることができて驚きました。スポンジのこんな使い方があったんだ!と、また自分の中の引き出しが一つ増えました。

 スポンジの感触が気持ちよく、握ると小さくなって、またもとに戻るというのがおもしろい!ずっと触っていたくなります。ただボールとして転がしたり投げたりしても楽しいし、水に濡らしたらどうなるんだろう、絵具をつけてスタンプのようにしても楽しそう。みんなでスポンジボール遊びの広げ方を考えることができた時間でした。まだまだ可能性がありそうです。

 りさ先生ありがとう!









月曜日, 7月 13, 2020

7/7 ゼミ『遊びと育ちを支える保育実践』(髙谷)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙谷です。
 今回は、山岡真由美「遊びと育ちを支える保育実践」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019,明石書店,p127-149]を読みました。

 今回、発表を担当してくれたりさちゃんは、人とイメージを共有して遊ぶには「人への信頼感」と「生活経験」が関係しているということを話してくれました。人への信頼感を育むための過程は、順序性や連続性があるということ。ごっこ遊びには子どもそれぞれの生活経験が関係しているからこそ、子どもの遊びの世界まで生活の格差が影響しているということ。そこから、実際の状況をイメージして、貧困の子どもたちにどのように関わっていけばいいかをみんなで議論していきました。

 経済的貧困の状況にある子どもから出てくる悲鳴にも近い言動や悪態をつく行動を受け止めるには保育者はどうすればいいのか。その議論をしていく中で、「保育者のかかわりにはゴールがある」という言葉がとても印象的でした。貧困状態にある子どもなど、何かしらのハンディギャップを抱えている子どもに対して、もっと遊べるように、健康な生活ができるようにと支援しようとするとき、保育者は何ができるのでしょうか。子どもの様子やその変化に気づくことができるのは、子どもと日々関わっている保育者だと思います。その気づきを園で共有し、様々な専門機関に協力をお願いする必要があるかもしれません。家庭の問題には保育者より的確に支援ができる家庭の専門家がいると思います。では、保育の専門家である保育者の役割は何なのでしょう。保育者がその家族や子どもと直接かかわることができるのは卒園までの時間しかありません。しかし、明確なゴールがあるからこそ、そのゴールに向けて、子どもを信頼して関わることが大切なのだと分かりました。今、子どもが園にいる時間を充実させ、様々な経験の機会や信頼の過程などを形成する補助をしていくことが保育者の役割なのだと思いました。「依存しない」「信頼する」これらは支援をする際に意識しておくべきことだと実感しました。

 今回のゼミは、途上国や貧困などの支援に興味を持っていた私にとって、支援のあり方という面でとても考える内容でした。ただお金があればいいわけではない。便利な機械があればいいわけではない。貧困の特効薬に自分がなるという考えは支援ではないのだと改めて感じました。私はこれを考えたとき、支援と援助の違いがとてもピッタリだと感じました。支援とは「力を貸して助けること」、援助とは「困っている人に力を貸すこと」です。この二つの言葉は一見同じように感じますが、支援はあくまで支えるだけで、行うのは本人です。一方で、援助は本人ができないことを代わりにやってあげることです。この違いを保育に移し替えると、その違いは信頼なのではないでしょうか。相手ができないと思っているからこそ援助という形で、すべてしてあげようと考えます。しかし、相手を信頼していると、保育者はあくまでサポート役であることを理解できます。支援と援助の違いを理解して、自分ができる支援を考えていきたいと思いました。

 「理解し、信頼すること」
 人と人とのかかわりあいにおいて、当たり前のようで意識しないと忘れてしまうことだと思いました。そのようなことに気づくことができたこの時間はとても有意義で楽しい時間だったなと思います。




金曜日, 7月 10, 2020

7/7ゼミ 15分せんせい『乳児の遊び その2』(高木)

 今回の15分せんせいは 未咲先生です!
 キラキラ〜ユラユラ〜ずっと見てしまうペットボトルのおもちゃ作りを紹介してくれました。
 作り方は簡単!キラキラしていたり見ていて楽しそうなものを、ペットボトルに入れてお水を入れるだけ!あとは水がこぼれてしまわないように蓋を閉じます。
 よく水のりの中にスパンコールやビーズ、細かいラメなどを入れて、キラキラさせるおもちゃはあるのですが、今回ペットボトルの中に入れる素材で意外だったものは毛糸やフェルト等の手芸用品でした。身近にあるものの、あえて水の中に入れるという発想は新しく、どのようになるのか予想できませんでした。いざやってみると…ユラユラする!まるで水のりを入れているみたいに、ユラユラ落ちていきます。毛糸が分散して広がっている人もいました。
 落ちていく中身を見るだけで楽しかったり、それを使って何か遊びが広がったり、このおもちゃの楽しさは年齢によっても違ってくるのかもしれませんが、みんなでこのおもちゃの楽しさをどう広げるか考えました。
 ペットボトルの中身は小さすぎて子どもに直接触らせてあげられないものや、水の中にあると意外なものとかが面白い!
 音を楽しむには水を少なめに入れなければ!
 見て楽しむのなら、つるつるのペットボトルの方がきれいに見えるかも!
 光を当てたらきれいにみえるんじゃない!?
 みんなの色々な発想でこのおもちゃの楽しさの広がりを考えることができた時間でした。
 未咲先生ありがとうございました( ◠‿◠ )





月曜日, 7月 06, 2020

6/29 ゼミ『遊びと遊び心の剥奪―障害と貧困の重なるところで』(高木)

 こんにちは!松本ゼミ3年の高木です。
 今回は、赤木和重「遊びと遊び心の剥奪―障害と貧困の重なるところで」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験―子どもの世界を守る』2019,明石書店,p.98-124]を読みました。
 今回の担当である未咲の考えを聞き、「人との『違い』をどのように捉えるか」、そして未咲のみんなへの問いかけであった「『よい遊び」とは何だろう」の二点について話し合いは深まっていきました。
 他者の間違いをすぐに正すのではなくその間違いを共有することで、優しさや面白さが生まれるという「ノリはやさしさ」という考えに触れ、ノリが生まれるにはその人との関係性が重要だと踏まえたうえで、確かに階段からこけたとき誰かが笑ってくれた方が救われるね~とノリが優しさに繋がっていることを再確認しました。そして「障害児になると、この手の笑いが「不謹慎」と感じられがちである。」という本章の記述から、自分たちが少なからず感じてしまっていた気持ちを打ち明け合い見えてきたことは、「違う」ことに対して意識してしまうということです。人と「違う」ことが良い意味でも悪い意味でも目立ってしまう世の中で、違っていて当たり前とは捉えられないのではないでしょうか。同じ方向をみんなで向き、つながろうとするのではなく、「ちがいながらつながる」ことを大切にする視点が私にとって大切にしたい大きな発見でした!
 そして『よい遊び』とは何かという未咲の問い。今よい遊びとされているのは①「適切な」遊び、②「一緒主義」の遊び、③「できないことをできるように」する遊びであり、知らず知らずのうちに私たちの中にも「よい」「正しい」遊びというものがあると考えさせられました。そして適切で、一緒に、できることを目指してする遊び観から一番抜け落ちやすいのは、障がいを持っている子ではないかという話がでました。そこから子どもの遊びを見る時、遊ぶこと自体が楽しいという視点をもって、いつからか持っている自分の中にある「よい遊び」の枠を超えて、楽しさや面白さを発見しに行くことの大切さを感じました。自分の考える「よい遊び」の枠を超えて楽しさを見つけることはとてもエネルギーがいることだと思います。まずは自分の中には「正しさ」がある、その「正しさ」から距離を置いてみる、という考え方を持っておこうと感じました。
 まだまだ自分には難しい話も多いのですが、少しずつ自分の考え方が広がっていくようで、毎回ゼミが面白いなあと感じます。これからも周りの皆さんに刺激されながら頑張ろうと思います!!



日曜日, 7月 05, 2020

6/29 15分せんせい『乳児のあそび』(片岡)

 こんにちは。片岡です。先日の15分せんせいの報告をさせていただきます。

 今回の遊びは、はな先生による「小麦粉を使ったフィンガーペイントで遊ぼう!」
 準備物は、水と小麦粉を3:1で混ぜて煮詰めたもの(焼く前のホットケーキの生地の感じ♪名付けて“トロトロ”)と絵の具、画用紙、紙皿。
 紙皿に、トロトロと絵の具少々を入れて、指で混ぜると・・・写真の感じになります。それを画用紙に塗って、Let‘sおえかき♪絵の具だけよりものびがいい!油絵っぽい質感が出る!など、トロトロ絵の具ならではの良さを味わいつつ、個性あふれる作品が出来上がりました。
 絵の具を混ぜず、“トロトロ”の状態のままでも十分おもしろくて、感触遊びになる!
 画用紙以外に、プラスチックのボード(粘土板のようなもの)に描くのも楽しそう!
 などなど、遊びながらアイディアもたくさん出てきました。

 絵の具を食紅にすれば、口に入っても安心安全。小さい年齢の子どもでも、フィンガーペインティング用の絵の具がなくても、身近な素材ですぐに始められる、素敵な遊びです。
 
はなちゃん、ありがとう☆
















日曜日, 6月 28, 2020

6/23ゼミ 15分せんせい『幼児のあそび』(髙谷)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙谷です。
 先日の15分せんせいの報告をさせていただきます。

 今回の15分せんせいはりさ先生でした!
 りさ先生の用意してくれた「かみひこうきはかせになるための参考書」をみながら、広告用紙や折り紙を使って紙飛行機を作って飛ばす活動でした。
 今回は参考書の中から、宙返り飛行機、ギネス記録の紙飛行機、つつがた飛行機の三種類の紙飛行機を実際に作って飛ばしてみました。

 折り方はとても難しいということはなく、4、5歳児であれば作り方を覚えると自分で作れそうだと思いました。実際に飛ばしてみると、宙返りしなかったり、遠くに飛ばせなかったりと参考書通りに折っても思い通りに飛ばず、みんな真剣に飛ばし方の研究をしていました。同じ折り方でも、折り方や飛ばし方の少しの違いで飛びかたや飛ぶ距離が違うところが紙飛行機のおもしろさなんだなとあらためて感じました。
 最後はゼミ室を飛び出して415教室前の中庭のような場所で思いっきり飛ばしてみました。2階から飛ばしてみたりと全力で遊べてとっても楽しかったです。
今度機会があれば子どもたち一緒に作って遊びたいなと思いました!

 りさ先生ありがとう!!








土曜日, 6月 27, 2020

6/23ゼミ『生きるためにあそぶーあそびが見えてくる社会にむけて』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ3年の髙橋です。
 今回は、塩崎美穂「生きるためにあそぶーあそびが見えてくる社会にむけて」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験ー子どもの世界を守る』2019, 明石書店, p.71-95]を読みました。

 今回の担当は花ちゃん。あそび仲間に年下の子どもがいると、その子は鬼ごっこで捕まっても鬼にならないという「おみそ」について、「おみそ」がいるという異質性がおもしろさにつながっているのではないか。また、あそびは「自分自身を伝達する」ユニークで代替不能な行為であるからこそ、人間らしく生きていくために必要であるのではないか、と考えていました。
 ゼミでは「あそびをどう捉えるのか」を軸に議論を展開していきました。

 私は議論する中で、大人の遊びと子どもの遊びという視点から、子どもにとって遊びが如何に大切かを感じました。大人の遊びは、日々の仕事や学業に対する息抜きや気分転換として行われ、娯楽に近いのではないかと思います。娯楽はゲームのように、受動的に消費する遊びであり、永遠と更新され続けない限りいつかは限界(終わり)がきてしまうものです。それに対して、子どもの遊びは日常的であり、能動的に自分で生み出す遊びであるため、無限に発展・派生することができるものであると思います。だからこそ、1つの遊びを取り上げても様々な子どもの姿が見られたり、誰にも予想できないようなことがあちこちで繰り広げられたりするのでしょう。
 大人の娯楽のような遊びも子どもの遊びも、生活を豊かにするものであると思いますが、子どもにとって後者の遊びのような経験を沢山積むことが大切なのではないかと感じました。

 最後に、花ちゃんが話し合いたいこととして提示してくれた「あそぶ子どもを承認する」とはどのような援助や支援をすることなのか、について考えました。保育者が計画しすぎず、子どもから生まれてくるユニークさを大切にする、という意見に確かにそうだなと感じました。子どもが感じる楽しさは1人1人違うと思います。例えば、砂場遊びをする子どもたちの中でも、ひたすら掘っている子もいれば、砂を盛って高い山を作ることに夢中な子もいるでしょう。保育者の援助・支援として、子ども1人1人が感じる楽しさはユニークさ(=その子らしさ)であると捉え、それをしっかり認めて受け止めることが大切だなと思いました。

 松本ゼミのメンバーとなって早1ヶ月半。文献を用いた議論を通して、遊びや子どもについて自分の考えが少しずつですが広がったり深まったりしているように感じます。今後もいろんな考えや視点に触れていきたいなと思いました。



木曜日, 6月 18, 2020

6/16 ゼミ『貧困と子どもの経験-子どもの視点から考える』(片岡)

 こんにちは。片岡です。前回に続き、松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, を読んでいます。今回は第一章、大澤真平「貧困とこどもの経験 -子どもの視点から考える」でした。

 担当のりさちゃんが文献を通して考えたのは、「子どもの貧困の見方」と「支援のあり方」について。
 「子どもの貧困の見方」:今の日本は子どもの生活は家庭とは切り離せない構造になっており、経済的余裕に加え、病気や介護など家庭によって抱えている問題もある。お金、時間、心etcの余裕がなくなると、子どもの可能性も奪われてしまうのではないか。(りさちゃんの図解がとっても分かりやすいので写真⇩もご覧ください!)



 「支援のあり方」:大人が、「いま、ここでの」子どもの世界や遊びを守ることが大切なのではないか。また、支援のあり方の具体例として「クリスマスにサンタさんからのプレゼントがない家庭もあるから、保育所等でサンタさんが出てくる絵本の読み聞かせをするべきではないのか?」という問題提起も。

 そこで、「貧困は何を失わせるのだろう?」という問いを手がかりに議論。
 貧困で失われるもの…友達との時間?余暇?進路を決めるときの選択肢?
 いやいや、問題は失われることではなく、隠さなれければいけないことでは??
 等々意見を出し合い、たどり着いたのは「自分や相手に期待する気持ち」ではないかと。人間は、貧困という状況に置かれると、そこに適応しようとする。いろいろな考えや希望を言っても叶わないことが続くと、だんだん諦めて言わなくなる。そのことは次第に人生全体に影響を及ぼし、相手や自分の将来に期待したりする気持ちを失わせてしまう。特に乳幼児期の子どもの場合、他の世界を知らずに適応し、人生の早い段階から、期待する気持ちを持てず、思いを言葉にせず、人生を送るようになるのではないだろうか。

 貧困、病気、障害・・・どのような状況に置かれている人間にとっても、生きていく上で「自分や相手に期待する気持ち」を持っていることは大きな力になる。それがあれば、自分を取り巻く困難も乗り越えることができるだろう。でも、困難を乗り越えることが、“諦めによる適応”であってはならない。“自分や相手に期待する気持ちを持ったうえでの選択”であれば、それは自分という崩れない土台を作ることになる。

 このことは、支援のあり方を考えていく上での重要なポイントでもある。先ほどのサンタさんの絵本の例で考えると、大切なのは“読まない”ことではなく、“その絵本を見ない権利が保障されているか”。隠すのではなく、違いや多様性をどう子どもに伝えるか、そこを考えることで支援のあり方が見えてくる。
 乳幼児に関わる者として、子どもの思いを丁寧にひろい、子どもにとって思いを出せる(=それはつまり思いに答えてくれると子どもが期待している)相手でありたい。そして、集団を相手にする中で、一斉に何かをさせることで知らず知らずのうちにある価値観を押し付けていないか振り返り、どの子どもにも遊びや話題に参加する/しない権利を保障しなければならない。

 議論を進めていくうちに、よく言われる(けれどなんだか漠然としている)“一人ひとりを大切に”の本質が見えてきたような気がします。実践に生きる議論となりました。

 「自分や相手に期待する気持ち」
 ・・・子どもだけでなく大人である私たちも、意識はしていないけれどいつもその気持ちに支えられて、毎日を過ごすことができているのだろうなぁと感じた時間でした。