日曜日, 6月 28, 2020

6/23ゼミ 15分せんせい『幼児のあそび』(髙谷)

 こんにちは。松本ゼミ4年の髙谷です。
 先日の15分せんせいの報告をさせていただきます。

 今回の15分せんせいはりさ先生でした!
 りさ先生の用意してくれた「かみひこうきはかせになるための参考書」をみながら、広告用紙や折り紙を使って紙飛行機を作って飛ばす活動でした。
 今回は参考書の中から、宙返り飛行機、ギネス記録の紙飛行機、つつがた飛行機の三種類の紙飛行機を実際に作って飛ばしてみました。

 折り方はとても難しいということはなく、4、5歳児であれば作り方を覚えると自分で作れそうだと思いました。実際に飛ばしてみると、宙返りしなかったり、遠くに飛ばせなかったりと参考書通りに折っても思い通りに飛ばず、みんな真剣に飛ばし方の研究をしていました。同じ折り方でも、折り方や飛ばし方の少しの違いで飛びかたや飛ぶ距離が違うところが紙飛行機のおもしろさなんだなとあらためて感じました。
 最後はゼミ室を飛び出して415教室前の中庭のような場所で思いっきり飛ばしてみました。2階から飛ばしてみたりと全力で遊べてとっても楽しかったです。
今度機会があれば子どもたち一緒に作って遊びたいなと思いました!

 りさ先生ありがとう!!








土曜日, 6月 27, 2020

6/23ゼミ『生きるためにあそぶーあそびが見えてくる社会にむけて』(髙橋)

 こんにちは。松本ゼミ3年の髙橋です。
 今回は、塩崎美穂「生きるためにあそぶーあそびが見えてくる社会にむけて」[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験ー子どもの世界を守る』2019, 明石書店, p.71-95]を読みました。

 今回の担当は花ちゃん。あそび仲間に年下の子どもがいると、その子は鬼ごっこで捕まっても鬼にならないという「おみそ」について、「おみそ」がいるという異質性がおもしろさにつながっているのではないか。また、あそびは「自分自身を伝達する」ユニークで代替不能な行為であるからこそ、人間らしく生きていくために必要であるのではないか、と考えていました。
 ゼミでは「あそびをどう捉えるのか」を軸に議論を展開していきました。

 私は議論する中で、大人の遊びと子どもの遊びという視点から、子どもにとって遊びが如何に大切かを感じました。大人の遊びは、日々の仕事や学業に対する息抜きや気分転換として行われ、娯楽に近いのではないかと思います。娯楽はゲームのように、受動的に消費する遊びであり、永遠と更新され続けない限りいつかは限界(終わり)がきてしまうものです。それに対して、子どもの遊びは日常的であり、能動的に自分で生み出す遊びであるため、無限に発展・派生することができるものであると思います。だからこそ、1つの遊びを取り上げても様々な子どもの姿が見られたり、誰にも予想できないようなことがあちこちで繰り広げられたりするのでしょう。
 大人の娯楽のような遊びも子どもの遊びも、生活を豊かにするものであると思いますが、子どもにとって後者の遊びのような経験を沢山積むことが大切なのではないかと感じました。

 最後に、花ちゃんが話し合いたいこととして提示してくれた「あそぶ子どもを承認する」とはどのような援助や支援をすることなのか、について考えました。保育者が計画しすぎず、子どもから生まれてくるユニークさを大切にする、という意見に確かにそうだなと感じました。子どもが感じる楽しさは1人1人違うと思います。例えば、砂場遊びをする子どもたちの中でも、ひたすら掘っている子もいれば、砂を盛って高い山を作ることに夢中な子もいるでしょう。保育者の援助・支援として、子ども1人1人が感じる楽しさはユニークさ(=その子らしさ)であると捉え、それをしっかり認めて受け止めることが大切だなと思いました。

 松本ゼミのメンバーとなって早1ヶ月半。文献を用いた議論を通して、遊びや子どもについて自分の考えが少しずつですが広がったり深まったりしているように感じます。今後もいろんな考えや視点に触れていきたいなと思いました。



木曜日, 6月 18, 2020

6/16 ゼミ『貧困と子どもの経験-子どもの視点から考える』(片岡)

 こんにちは。片岡です。前回に続き、松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, を読んでいます。今回は第一章、大澤真平「貧困とこどもの経験 -子どもの視点から考える」でした。

 担当のりさちゃんが文献を通して考えたのは、「子どもの貧困の見方」と「支援のあり方」について。
 「子どもの貧困の見方」:今の日本は子どもの生活は家庭とは切り離せない構造になっており、経済的余裕に加え、病気や介護など家庭によって抱えている問題もある。お金、時間、心etcの余裕がなくなると、子どもの可能性も奪われてしまうのではないか。(りさちゃんの図解がとっても分かりやすいので写真⇩もご覧ください!)



 「支援のあり方」:大人が、「いま、ここでの」子どもの世界や遊びを守ることが大切なのではないか。また、支援のあり方の具体例として「クリスマスにサンタさんからのプレゼントがない家庭もあるから、保育所等でサンタさんが出てくる絵本の読み聞かせをするべきではないのか?」という問題提起も。

 そこで、「貧困は何を失わせるのだろう?」という問いを手がかりに議論。
 貧困で失われるもの…友達との時間?余暇?進路を決めるときの選択肢?
 いやいや、問題は失われることではなく、隠さなれければいけないことでは??
 等々意見を出し合い、たどり着いたのは「自分や相手に期待する気持ち」ではないかと。人間は、貧困という状況に置かれると、そこに適応しようとする。いろいろな考えや希望を言っても叶わないことが続くと、だんだん諦めて言わなくなる。そのことは次第に人生全体に影響を及ぼし、相手や自分の将来に期待したりする気持ちを失わせてしまう。特に乳幼児期の子どもの場合、他の世界を知らずに適応し、人生の早い段階から、期待する気持ちを持てず、思いを言葉にせず、人生を送るようになるのではないだろうか。

 貧困、病気、障害・・・どのような状況に置かれている人間にとっても、生きていく上で「自分や相手に期待する気持ち」を持っていることは大きな力になる。それがあれば、自分を取り巻く困難も乗り越えることができるだろう。でも、困難を乗り越えることが、“諦めによる適応”であってはならない。“自分や相手に期待する気持ちを持ったうえでの選択”であれば、それは自分という崩れない土台を作ることになる。

 このことは、支援のあり方を考えていく上での重要なポイントでもある。先ほどのサンタさんの絵本の例で考えると、大切なのは“読まない”ことではなく、“その絵本を見ない権利が保障されているか”。隠すのではなく、違いや多様性をどう子どもに伝えるか、そこを考えることで支援のあり方が見えてくる。
 乳幼児に関わる者として、子どもの思いを丁寧にひろい、子どもにとって思いを出せる(=それはつまり思いに答えてくれると子どもが期待している)相手でありたい。そして、集団を相手にする中で、一斉に何かをさせることで知らず知らずのうちにある価値観を押し付けていないか振り返り、どの子どもにも遊びや話題に参加する/しない権利を保障しなければならない。

 議論を進めていくうちに、よく言われる(けれどなんだか漠然としている)“一人ひとりを大切に”の本質が見えてきたような気がします。実践に生きる議論となりました。

 「自分や相手に期待する気持ち」
 ・・・子どもだけでなく大人である私たちも、意識はしていないけれどいつもその気持ちに支えられて、毎日を過ごすことができているのだろうなぁと感じた時間でした。

日曜日, 6月 14, 2020

6/9 ゼミ『子どもの世界の中心としての「遊び」』(髙谷)

こんにちは。松本ゼミ4年の髙谷です。
今回からゼミで文献発表がスタートしました。今回みんなで読んだのは、川田学『子どもの世界の中心としての「遊び」』[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, p.15-44]です。

今回、発表を担当してくれたみさきちゃんは、文献を通して、ごっこ遊びのように「現実のようで現実とは異なる」というその距離感に子どもたちは遊びのおもしろさを感じているのではないか。また、大人が本気で遊びのおもしろさを追求する姿に対して、子どもたちが意外性を感じながらも受け入れることで、おもしろさを追求した遊びが生まれるのではないかと考察していました。そこから、ゼミでは「遊び」とは何か、「おもしろさ」とは何かについて議論しました。

議論の中でおもしろいと感じたのは、「本気」と「おもしろさ」と「余裕」の関係です。本気とおもしろさの関係では、サーカスの例が挙げられました。サーカスの綱渡りでわざと落ちそうなふりをすると、その瞬間会場は盛り上がります。このことから、本気で行っている中に本気が崩れる瞬間があることで観客はおもしろさを感じているのではないかと考えました。保育場面に移し替えると、保育者が意外性のあるものを提示したり、わざと大げさにしたりすることで、子どもたちがおもしろさを感じるということだと思います。では、遊び場面での子ども同士ではどうなのでしょう。遊びの中で本気が崩れる瞬間は、鬼ごっこで鬼になるといじけてしまう人や遊び中に砂いじりをする人など、遊びに本気で取り組んでいない人が想像されます。しかし、本気で遊んでいる人からすると本気が崩れている状況はおもしろいではなく、むしろおもしろくないと感じているのではないでしょうか。

本気が崩れる瞬間でも面白いと感じる場面とおもしろくないと感じる場面があるのは、「余裕」の違いがあるからだと考えました。面白いと感じる場面では、見せる側(パフォーマー)と見る側(観客)という二者関係が成り立っています。見る側は本当に危険ではないという安心感の下、余裕をもって見ているので、本気が崩れる時におもしろいと感じることができます。つまり、真剣な遊びの中にノリという余裕を持たすことでおもしろさが生まれてくるということだと思います。

今回の議論を通して、保育者はただ一つの立場にとどまる必要はないのだと改めて感じました。教育者として子どもたちに何かを伝え、大人だけど子どもと本気で遊び、一緒に面白さを追求し、時に余裕をもって俯瞰的に子どもの姿や子どもとのかかわりを見て考える。このように姿を変えながら子どもに関わることが保育者に求められているものであり、そこに専門性が必要となってくるのではないでしょうか。保育者は遊んでいるだけで簡単な仕事だととらえられることもあるが、そう見せている保育者こそ本気で遊んでいる証拠なのかもしれないと感じました。

サーカスという一見遊びに関係のない様な場面をつなげて考えている視野の広さに驚き、自分の経験を一つ一つつなげて、より深い学びにつなげていく姿はこれから見習っていきたいと思いました。たくさんの刺激をもらえる、そんな素敵な時間でした。