日曜日, 6月 14, 2020

6/9 ゼミ『子どもの世界の中心としての「遊び」』(髙谷)

こんにちは。松本ゼミ4年の髙谷です。
今回からゼミで文献発表がスタートしました。今回みんなで読んだのは、川田学『子どもの世界の中心としての「遊び」』[松本伊智朗/小西祐馬/川田学=編『遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る』2019, 明石書店, p.15-44]です。

今回、発表を担当してくれたみさきちゃんは、文献を通して、ごっこ遊びのように「現実のようで現実とは異なる」というその距離感に子どもたちは遊びのおもしろさを感じているのではないか。また、大人が本気で遊びのおもしろさを追求する姿に対して、子どもたちが意外性を感じながらも受け入れることで、おもしろさを追求した遊びが生まれるのではないかと考察していました。そこから、ゼミでは「遊び」とは何か、「おもしろさ」とは何かについて議論しました。

議論の中でおもしろいと感じたのは、「本気」と「おもしろさ」と「余裕」の関係です。本気とおもしろさの関係では、サーカスの例が挙げられました。サーカスの綱渡りでわざと落ちそうなふりをすると、その瞬間会場は盛り上がります。このことから、本気で行っている中に本気が崩れる瞬間があることで観客はおもしろさを感じているのではないかと考えました。保育場面に移し替えると、保育者が意外性のあるものを提示したり、わざと大げさにしたりすることで、子どもたちがおもしろさを感じるということだと思います。では、遊び場面での子ども同士ではどうなのでしょう。遊びの中で本気が崩れる瞬間は、鬼ごっこで鬼になるといじけてしまう人や遊び中に砂いじりをする人など、遊びに本気で取り組んでいない人が想像されます。しかし、本気で遊んでいる人からすると本気が崩れている状況はおもしろいではなく、むしろおもしろくないと感じているのではないでしょうか。

本気が崩れる瞬間でも面白いと感じる場面とおもしろくないと感じる場面があるのは、「余裕」の違いがあるからだと考えました。面白いと感じる場面では、見せる側(パフォーマー)と見る側(観客)という二者関係が成り立っています。見る側は本当に危険ではないという安心感の下、余裕をもって見ているので、本気が崩れる時におもしろいと感じることができます。つまり、真剣な遊びの中にノリという余裕を持たすことでおもしろさが生まれてくるということだと思います。

今回の議論を通して、保育者はただ一つの立場にとどまる必要はないのだと改めて感じました。教育者として子どもたちに何かを伝え、大人だけど子どもと本気で遊び、一緒に面白さを追求し、時に余裕をもって俯瞰的に子どもの姿や子どもとのかかわりを見て考える。このように姿を変えながら子どもに関わることが保育者に求められているものであり、そこに専門性が必要となってくるのではないでしょうか。保育者は遊んでいるだけで簡単な仕事だととらえられることもあるが、そう見せている保育者こそ本気で遊んでいる証拠なのかもしれないと感じました。

サーカスという一見遊びに関係のない様な場面をつなげて考えている視野の広さに驚き、自分の経験を一つ一つつなげて、より深い学びにつなげていく姿はこれから見習っていきたいと思いました。たくさんの刺激をもらえる、そんな素敵な時間でした。



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