土曜日, 7月 17, 2021

7/6ゼミ『してもらう、する、してあげる、させてあげる』(槇)

 こんにちは。松本ゼミ3年の槇です。

 今回は、第四章『してもらう、する、してあげる、させてあげる』(川田学(2019)「保育的発達論のはじまり」(ひとなる書房)p.74~88)を読みました!本章を担当してくれたのは3年のわかなです!

 本章は、〈ワタシ〉と〈アナタ〉が話者によって交替することを子どもが理解することの難しさと面白さから始まり、そこから子どもたちの自己意識が自己を離れ、だんだんと他者へと拡張していく育みへの着目を経て、本章の題名である「してもらう、する、してあげる、させてあげる」の考察が述べられています。その展開がとても興味深かったです。

 私は今回の「させてあげる」の部分を読んだときに無意識的に保護者・保育者から子どもへの働きかけを想像していたため、本書の事例が子どもから子どもへの働きかけであることをとても新鮮に感じました。この部分での話し合いにおいて、私はとくにりささんの、「パズルをすることは苦手だけれど、その動作を純粋に楽しんでいる子どもに対してほかの子どもがやってあげようとする」という事例が印象に残りました。子ども達は「全然進んでいないから手伝ってあげよう」と思っていますが、その子にはほかの子ども達のことが「自分がやりたいのに勝手にやろうとしてくる迷惑な人たち」として映っていることでしょう。これはきっと「する」「してあげる」の行動だと思います。ここから「させてあげる」という行動ができるようになるには他人の心を推し量り、「あえて」の行動(あえて手を貸さず、自分でできた!を支援する、など)ができるようになる新たな発達の展開が必要なのだと学びました。また、「させてあげる」という動作は保育環境、誰を主体として見るか、によって捉え方も変わってくるので一概にその行動を「させてあげる」の行動だと言い切るのは難しいという話もしました。また、「それをしたら褒められるから」という感情で動くことは能動的と言えるのか、という問いもとても印象に残りました。

 わかながみんなで考えたいこととして提案してくれたのは、機械が保育の現場に入ってくることは子どもの発達などにどのような影響を及ぼすのだろうか、能動と受容の一体的な経験を経て育まれていく主体性は機械だと育むことはできるのか、の2点です。

 まず一つ目の疑問に対して、機械と関わる中で子どもと機械との間にどのような状態が生じるか、ということについて話し合いました。表情や声のトーンが変わらないため、普段人との会話の中で何気なく働かせる「察する」という心の動きが必要なく、それと反対に、自分の気持ちが相手に伝わったか伝わっていないかを考えることがなくなる、など、人間ならではの「心の内」という部分に関する機械との比較がたくさん挙げられました。また、機械とのかかわりは「絶対的なものとして存在し続けるという安心感」があるが、同時に「この言い方をしたらこの人はどう思うだろう」というこちら側の感情の発生をなくし、「いつかいなくなってしまうかもしれない儚さ」もなく、それは虚しさを生むかもしれないという話も出ました。

 二つ目の疑問に対しては一つ目の疑問とも繋がって、人ならではの「意外性」がなくなることはすなわち、空気感を肌で感じる必要性がなくなるため、前回までの議論で出てきた「主体性の育みの中で必要な、他者とのかかわりの中での揺らぎ」がなくなるのではないか、という意見が出てきました。結論には達していませんが、子どもの主体性の発達に対する意外性のある人間のかかわりが生み出す揺らぎの大切さを改めて実感する話し合いとなりました。

 先生や先輩方と一つの議題について思い思いに意見交換をさせていただく時間は毎回大変緊張するものですが、その時間を経て、自分の中での学びが深まったり、新たな視点を吸収したりできるのがとても楽しく、本当に大切な時間だなと感じています。これからもゼミでのたくさんの学びを吸収しながら、成長していきたいと思っております。



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