7/10/2016

UK Literacy Association 52nd International Conference (松本・常田)

表題の国際会議に、2年振りに参加しています。
昨日、以下のタイトルでの発表を無事終えることができました。

-Matsumoto, H. & Tsuneda, M. (2016). Japanese kindergarten and nursery teachers' beliefs regarding emergent literacy instruction for young children. United Kingdom Literacy Association 52nd International Conference. (The Mercure Hotel, Holland House Hotel & Spa, Bristol, UK. July 8-10, 2016.)

2年前はおそまきながら、初めての海外での口頭発表で、自分たちの研究をどう伝えるかで手一杯。
少しずつ、前へ!ということで、今回は次のような目標を立てていました。

・日本の保育や教育、自分たちの研究につながる何かを、ディスカッションから持ち帰ってくること。
・自分たちの研究が、こちらの研究や実践に対し、提起・貢献できる何かを残してくること。

発表を終えて振り返ってみると、後者についてはもう一歩(たとえば、多くの人を惹きつけるようなタイトルのつけ方や、Audienceの間口を広くアピールすることも重要!)でしたが、前者については確実に多くを学べたように思います。

Literacyとは、狭義には基礎的読み書き能力のことを指します。
ここイギリスやアメリカ、カナダ等、英語圏では特に、保育・教育を語る上では外すことができない概念です。(だいたい、Literacy Associationが成り立って、国際会議等々を開催するくらいなので…)

ただし、なぜそれを保育・教育の大事にするかは、日本のそれとだいぶ異なる印象を受けました。
日本においてリテラシーといえば、多くは読み書きを正しく学ぶことがイメージされるかもしれません。
いっぽう、イギリスにおけるそれは、自己表現、自分の意見の表明や、アイデンティティを自覚し、表出するにあたっての必要条件として、多くの教師・保育者の間で共有されているように感じます。つまり、リテラシーの獲得はゴールではなく、かけがえのない自分自身の考えを伝えるために必要な道具として理解されているということです。

日本の保育の中では、リテラシーは狭義の遊びや人間関係、体づくり等と対置され、たとえば「読み書きよりも社会性を」のような文脈で語られることも少なくないように感じます。
いっぽう、義務教育以降では、「自己表現」が大切にされているようで、実際にはそれは場の雰囲気を読んで「こう語るべき」という“正解”を先取りする訓練になっていたり、その結果、そもそも意見そのものを適切に表現することを回避したり、という結果を招いてはいないでしょうか。

「正解」を与えることが、教育・保育の役割なのか。
多様性のある自己表現や、意見表明を介しての相互理解を通じて、アイデンティティ=自分らしさを形成していくプロセスを支えるのが、教育・保育の役割なのか。

日本の教育を取り巻く状況が、「正解の押し付け」のような方向に向かおうとしている今、イギリスにおけるリテラシーの定義から、多くの示唆を得ることができると感じました。

国際会議はあと1日。
もう一歩吸収して、帰りたいと思います!




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