3/02/2013

乳幼児期の豊かさとしての“ムダ”(松本)

前回の記事で触れました、香川大学メールマガジンに載せた記事について再掲します。
旧ブログでは載せましたが、考えてみればこちらには載せていなかったので…。
昨年4月に書いたものです。

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 ある教え子から聞いた、彼女が4歳頃の思い出です。

「……幼稚園のテラスの水道で友だちと2人で手を洗っていたときに、突然友だちが『私、石けんで顔を洗っているときに目、開けられるよ!』と言って実践してくれたのを覚えています。それを見た当時の私は衝撃と感動でいっぱいになり、その日帰ってから練習したのを覚えています。……今考えるとマジでどうでもいいことですけど、当時はかなり重要な使命に思えていたみたいです。……」

 幼児期のうちに「石けんで顔を洗うときに目を開ける」技ができないと、大人になったときに困ったり、逆にそれを身につけると、これからの人生がすばらしく切りひらかれたりするでしょうか。もちろん!そんなことはないでしょう。
 
 考えてみれば、乳幼児の行動は、大人の視点から見れば「ムダ」に見えることだらけです。いっぽうで、そんなことに熱くなり、夢中になれるのはこの時期ならではでしょう。タンポポを見つけて目を輝かせ、石ころ集めに熱中し、ちょっと高い崖から飛び降りるチャレンジに胸をどきどきさせる……いずれも将来“役立たないこと”だらけですが、逆説的にいえばそんな行動に夢中になれること自体が、加齢に伴い見えなくなってしまう、乳幼児期の本質と言えるかもしれません。


 「ムダ撲滅」に代表されるような、有用性=役に立たねばならないという圧力の強い昨今です。子どもの立場から言えば「これから社会に出たら困るでしょ!」というプレッシャーにさらされ続ける日々のようにも思います。しかしながら「役に立つ」という概念は、実はとてもゆらぎやすいものです。誰にとって、何のために役に立つか、立場によってその答えは異なります。そして、いずれの立場から語るにせよ、「役立つことがわかる」と事前に判断できるのは、問いや目的が既に自明である場合においてのことでしょう。

 「未曾有の災害」という言葉が使われて1年が過ぎました。私たちは生きる中で、問いや目的が事前に与えられているケースばかりに遭遇するわけではありません。よく発見・発明は「ムダ」から生まれると耳にします。それはなぜか? 実はヒトが新たなものを生み出し、前に進むためには、問いや目的がみえない中で「ムダを重ねる」時間こそが鍵となるからでしょう。

 自明の問いを短時間でいかに効率よく解決し、目的へ至るかという目に見えやすい力だけではなく、新たな場面で、問いや目的そのものを編み出す力をいかに育むか。乳幼児期に“ムダ”な時間を保障することは、ヒトという種、そして私たちの社会が希望をもって新たに歩むために欠かせないことのように思います。微力ながらその手がかりとなることを願いつつ、乳幼児の発達研究に尽くす毎日です。


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