日曜日, 8月 31, 2014

小さなこどもの観覧日 ふたたび(松本・常田・松井)

 先週、8/25のことになりますが、香川県立ミュージアムでの特別展『美術は友だちーミュージアム大コレクション展』における企画として、『小さなこどもの観覧日』を休館日を利用して開催しました。

 古美術をテーマに開催した昨年10月に引き続き、県立ミュージアムと大学、地域NPO法人とのコラボレーションで準備を進めた今回、乳幼児350名に加え、保護者や引率保育者のみなさんを合わせ、500名を越える方々に来館して、楽しんでいただきました。
 関係する全ての皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました。

 『美術は友だち』
  友だちとは、誰かに強く勧められたから仲良くするのではなく、ちょっとしたきっかけから、気づけば一緒に過ごし、楽しみたくなる……。そして久しぶりに出会っても、しぜんと繋がれる。
  有名だから、貴重だから見せなくては、ではない、子どもたちが思わず心ひかれるであろう、ちょっとしたしかけを土台にした今回の鑑賞経験が、あさっての社会をつくる礎となる、子どもたちの主体的な思考とふるまいへと結びついていくよう、これからも取り組みを継続していきます。

 詳細は今後に譲りますが、とりあえずの報告でした。
#当日の様子について、四国新聞、NHK他に紹介いただきました。






日曜日, 8月 10, 2014

“明日”そして“あさって”(松本)

先週末は全国保育団体合同研究集会の基礎講座で福岡にて、昨日は山形県民間立保育園協会の講演で、山形市にて、どちら主に0〜2歳児の発達と保育の話をしてきました。
いずれのタイトルにも、保育での「今」の手立てを考えるにあたり、“明日”と“あさって”というキーワードをタイトルに含めたのですが、時間的に十分に話しきれなかったので、ここで少し補足したいと思います。

「明日」とは、予測できる、近い未来のことをさします。
今はまだできないけれど、明日の姿を願って、子どもに働きかけていく。保育や教育の中で、ごくあたりまえのふるまいといえるかもしれません。

いっぽう「あさって」とは、まだはっきりとみえないけれど、いつか訪れるだろう、少し先の未来のことをさします。
明確に目標を思い描き、それを先取りして、そのために効果的な手立てとして組み立てられるのが「明日」に向けたそれだとすれば、いっけん無駄のようにも思えるけれど、まずはやってみることで、その先に立ち上がる何かを味わっていこうとするふるまいが、「あさって」に向けたそれにあてはまるでしょう。

これから起きうることは予測できるか、というのは難しい問いですが、一般にある程度予測することは可能だと思うのです。そのための準備は、多くの場合役に立つはずです。
しかし一方で、時にヒトは、十分に予測していなかった状況にぶつかることがあります。
そのときにヒトは、どのようにふるまうことができるのか。
これまでの予測と積み重ねから、右に進むことを練習してきたヒトが、予想外の状況を前にして、とっさの判断で左に進めるためには、「明日」のためだけではなく「あさって」に向けた時間を、これまでの人生の中でどれだけ費やしてきたかが鍵になるように感じます。

いろいろなことがわかってきて、「秘境」や「わからないこと」が既にないようにも思える現代社会ですが、実際にヒトが社会で生きていく上では、どうしてよいかよくわからない、答えのない状況に置かれることもままあるでしょう。

「明日」だけでなく、「あさって」へのまなざしを、それまでにどれだけ育まれてきたか。
答えのない状況における、しなやかなふるまいの土台をつくるのも、公教育(保育)に課せられた重要な役割だろうと思うのです。

この問題はなかなか難しいので、いずれ続編を書こうと思いますが、とりあえず。


金曜日, 8月 08, 2014

ごっこから本気へ、本気からごっこへ(松本)

2〜3歳の子どもたちの遊ぶ様子を見ていると、時にそれが「ごっこ」なのか「本気のふるまい」なのか区別し難い場面に多々出会います。

石鹸を使って泡遊びに夢中の子どもたち。そこから始まったおせんたく。

洗濯ごっこなのか、はたまた本気の洗濯なのか……

あれ、お風呂ごっこだったはずが、いつのまにか本気のお風呂みたいに……

お手伝いのはずの茶碗洗い。でもこれって単なる遊び……!?


でも、改めて2〜3歳児の視点から考えてみれば、そのような問い自体がもしかして、意味をなさないものなのかもしれません。

子どもたちにとってそれは遊びでもあり、同時に本気でもある。

両者が思った以上に一体的であり、その間を自由に行き来できること自体が、この時期ならではの発達特徴だといえるでしょう。


ここからは、この時期の子どもにとって課題とされる生活の自立が、遊びと不可分な形で展開されていくことが見えてきます。

子どもたちは自分で着替えられる、食べられる、排泄ができる……を目指して日々過ごしているのではなく、ただただ、目の前の活動を、大好きな大人と友だちとの間で楽しみたい思いで日々を重ねている……。

その結果として「自立」が達成されるという事実を、私たち大人は忘れないでいたいものです。



水曜日, 6月 04, 2014

教材研究@ゼミ(松本)

本日のゼミにて。米粉ねんど。
まずは手を動かしつつ、わかっていくことも多々あります!




日曜日, 5月 11, 2014

保幼小連携から考える公教育/保育の役割(松本)

 少し時間が経ってしまいましたが、雑誌『現代と保育』(ひとなる書房)の最新号(88号:3月刊行)に、『5歳児も小学生もわくわくする保幼小接続を目指して』のタイトルで連載原稿を書きました。
 登場するのは香川県丸亀市立富熊保育所と富熊小学校。
 扉付きフェンスを隔てて隣にある両者が、1年にわたってさまざまな年齢・学年同士で交流を重ねた記録です。当ブログでも、昨年7月の記事にて、合同ピザクッキングのエピソードを紹介させていただきました。

 いわゆる就学前教育の場である保育所や幼稚園と、義務教育の開始期である小学校との間において、近年、両者の連携/接続の重要性が強調されることが増えています。そのときのキーワードとしてよくあげられるのは「円滑」や「段差をなくす」というもの。保育所や幼稚園から、小学校へ。学習内容はもちろん、生活面でもかなり大きな変化を伴う両者の間が、文字通り滑らかに通じていくことは、なんだか理想的な方向であるようにも聞こえます。
 いっぽうで、教科教育を中心とする小学校以降の教育実践と、遊びを中心とする総合的指導の保育実践に代表されるように、両者の間にはそもそも、なぜ制度の面や、学びの支えようの違いが大きいのでしょうか。そこからは、子ども自身の発達特徴をはじめとして、今のような対照的ともみえるシステムがつくられ、それなりの時間が積み重ねられてきたことには、何らかの必然性と、社会における意味があると読み取ることができます。

 義務教育である小学校は、社会の縮図でもあります。
 授業が好きな子もいれば、休み時間と給食に全力投球!の子もいるのが、よくあるしぜんな姿ではないでしょうか。
 
 近年あちこちで耳にする「社会」や「地域」というキーワード。それはすなわち、いろいろな人がいる場について考える、ということでもあります。それを包摂する場に求められるのは、ある、単一のやりかたや価値観に人々をまとめていく試みではなく、できるだけ多くの人が手応えを感じられる、多様なアプローチを準備することなのだと思います。
 生涯発達のどこかの時期で、誰もが何らかの手応えを感じられるように。
 私たちの社会と、未来をつくる、という視点からみたとき、“公”教育/保育の大切な役割は、そんなかたちで位置づけることができるでしょう。

 今回の実践からは、保育所の先生方と小学校の先生方が、互いの良さを尊重し、信頼し合いながら、それぞれの子どもたちを支えていくさまを学ぶことができます。
 一緒にする、とは、単に共通のものさしをつくることではなく、共通するねがいを、それぞれのよさを最大限に活かして実現できる方法を考え、実践すること。
 「日常」と「非日常」をキーワードに読み解くことができる、そんなちょっぴり素敵な「保幼—小連携」のありように興味を持たれたみなさん、よろしければぜひ、お読みいただけると嬉しいです!

 富熊保育所・小学校、丸亀市幼・小・保連絡研究協議会のみなさま。
 素敵な機会をいただき、ありがとうございました。今後の展開を楽しみにしております。

水曜日, 3月 26, 2014

給食のチカラ(松本)

 研究上のちょっとした必要があり、このところイギリスの保育・初等教育について、少し遡りつつ調べています。
 そんな中で何度か出会ったのは、表題の話。
 イギリスの給食制度 school mealsは、35年ほど前までは、伝統食も提供されるとても充実したものだったそうです。(ちなみに無償)
 それが、教育改革が叫ばれ始めたのを境に、予算削減の一環として民営化が行われます。最も低コストで受注できるのは、たいていの場合、グローバル展開している大規模ケータリングサービスの関連企業等。その結果提供されたのは『塩気の多いフライドポテト、ぐずぐずのグリンピース、ケチャップの塗りたくられた灰色のチキンソーセージ……』(ウェンディ・ウォラス(藤本卓訳)『あきらめない教師達のリアル:ロンドン都市裏、公立小学校の日々』太郎次郎社エディタス より)
 生活の基盤である「食べること」の、このような状況に疑問を抱いた人たちが声をあげ、ここ10年ほどは、徐々に改善が図られているようです。
 ご存じの方も多いのかもしれませんが(私は最近初めて知りました……)現地在住の小学生の手によって始まった、給食紹介ブログ NeverSeconds(=おかわりせんよ!)が興味深い&面白いです。最初の方のプレートの写真が衝撃!

 いま、日本でも保育制度改革が叫ばれ、議論が進められる中で、給食室のありようや外部委託問題等が話題になっています。
 生活格差や食経験の多様化が繰り返し指摘される現在、誰もに平等であるはずの保育・公教育における「給食」を、これからどんな存在として位置づけ、考えていくか。イギリスをはじめとする他国の歴史は、「グローバル化」という単一のものさしを使った「改革」により変化をもたらすことの容易さと、一度失ったプロセスを取り戻すことの困難さを、私たちに教えてくれているのかもしれません。

 五感を介して現れる「食」は、ヒトを自ずと前のめりにさせる力をもつもの。
 一緒に食べる誰かがいるからこそ、それはさらにおいしくなり、嬉しくなり、楽しくなる。
 人生のスタートとしての乳幼児期を、全ての子どもたちが豊かに踏み出せるように、保育の魅力をつくり、子どもたちの生活の基盤となる給食を、これからも大切に位置づけ、育んでいきたいものです。
 その要が、乳幼児と保護者のすぐそばにある、給食室の存在ではないでしょうか。

日曜日, 3月 02, 2014

切り替えるための時間と、それを支えてくれる仲間と(松本)

  気づけばまた3月。
  毎年恒例の、第一そだち保育園/第二そだち保育園(愛知県春日井市)の、1年の保育のまとめ会にお邪魔してきました。

  第一そだち保育園での議論は、1歳児の月齢大クラスについて。
  1歳半を過ぎて表象の世界に入り、徐々に生活の見通しが深まっていく。
  それは同時に、いろいろなことを覚えていられる、という記憶の世界に子どもが足を踏み入れたということでもあります。
  自我のめばえに記憶が加わりゆく2歳台。子どもの「自分で思ったことを、やってみたい」思いは自ずと強まっていくことでしょう。それは時に、生活場面などでの行動の切り替えの難しさとして現れるかもしれません。

  発達したからこそめばえる、自己主張やこだわり。
  いっぽうでこの時期は表象の深まりに伴って、支えてくれる大人の自分とは異なる思いに気づく土台ができてきます。とはいえ、だからすなわちうまくふるまえる、とは限らないのがヒトらしさです。
  時にはむしろ、支えてくれる大人のメッセージの正しさに気づき始めるからこそ、すぐにそれに従って切り替えにくいこともあるのでしょう。

  とある保育所でのできごとです。
  園庭に出て、3輪車で遊びたかった2歳半のみすずちゃん。
  数の限られている3輪車は既にみんなに使われていて、大泣きしてしまいました。
  保育者が丁寧に思いを聞き、声をかけてなぐさめようとしますが、遊びたかった思いはそう簡単におさまりません。

  そこにふと現れた、同じクラスで3歳になったばかりのひかりちゃん。
  「ミスズチャン、ダイジョウブ。ヒカリチャンガ、イッショニサガシテアゲルカラネ」と声をかけ、園舎の向こうにある倉庫に探しに行きました。
  3輪車は全て園庭に出ているので、あるはずはないのですが……。

  「ナイネー」「ナイネ」
  見えない倉庫の前で、きっとそんな言葉を交わしていたのでしょうか。
  しばらくして戻ってきた2人。みすずちゃんの顔から涙はすっかりひいて、いつもの笑顔が戻っていました。

  すぐにはできなくとも、支えてくれる仲間と、切り替えるための時間が準備されることで、子どもは少し前に進んでいける。
  そんな子ども同士の関係との時間を十分に保障する部分にこそ、乳児保育の専門性があるように思います。
  そんなことを改めて考えさせられた、まとめ会での議論でした。先生方に感謝です!